できないことなんかないし、
むしろ人よりできることのほうが多いし
子どもの頃はどんなことをして遊んでいましたか?
小学校3年生までは、函館の隣の七飯町というところで育ちました。車もほとんど走ってなかったし、坂ばっかりだったので、縄跳びしながら競争したり、幼なじみの家で飼っていた犬と競争したり、木登りしたり。女の子らしい遊びはほとんどしなくて、いつも男の子たちと一緒で、かなりアクティヴなほうだったと思います。自然の中で育ったっていう感じです。
ご両親は心配しなかったんですか?
全然。「沙絵は止めても無駄だから」って感じでした。
兄弟は?
弟もいるので、3人姉弟です。姉は人見知りがすごくて、おままごととか、人形遊びとか、セーラームーン大好きみたいな、いわゆる女の子っぽい感じ。弟は3つ下ですけど、ゲームがすごく好きな現代っ子って感じ。
自分の腕に障がいがあると自覚したのはいつの頃でしたか?
3歳の時でしたね。弟が腕のある状態で生まれてきて、それを見た瞬間に。それまではお母さんに「腕は伸びてくるの?」って聞くと、「伸びてくるかもしれないし、そうじゃないかもしれないわねえ」なんて言葉を濁していて。だから、もしかしたら成長するにつれて伸びてくるのかもっていう期待があったんです。でも、弟が生まれてくるのを見て「えっ、人間って手足そろって出てくるんだ?」って。
その時のことは鮮明に覚えていますか?
強烈に。「あとから伸びてこないじゃん!」って。「お母さん、うそついたの?」って、ショックでしたね。母の言葉に懸けてたわけですから。
自分に右腕がないことで、引け目を感じることはありましたか?
まったくなかったんですよ。私、小さい頃からみんなより足が速くて、小学校、中学校、高校と、すべて駆けっこは1位。リレーもアンカーを任されていたので、右腕がないことで暗い気持ちになることもなく(笑)。それに、わりと器用に要領よく、なんでもできちゃう子だったんですよね。逆に、「ああ、みんなできないんだな」って思うことはよくありました。
小学校5年生でハンドボールを始めたそうですね。
4年生の時に函館市内に引っ越したんですが、その時の担任の先生がハンドボールクラブの顧問だったんです。「かやげハンドボールクラブ」っていうクラブで。クラスの子たちもみんなハンドボールをやっていて、当時はどういう競技かまったくわからなかったんですけど、楽しそうだったし、放課後はヒマだったので、みんなと一緒に遊びたいと思って始めたのがきっかけです。
周囲の仲間たちは、どうやって辻さんをチームに迎え入れたのですか?
私がクラブに入った時、担当だった高田先生が「沙絵には右手がない。でも、俺の知ってる先輩で、沙絵と同じように右腕がなくて大学でハンドボールをしている人がいる。だから、沙絵にもできるんだ」って、みんなの前で言ってくれたんです。ハンドボールの基本は障がいの有る無しに関係なく、相手の顔の近くにパスを投げること。高田先生は「俺たちにできることは、相手にとってキャッチしやすい場所にパスを投げることだ」って言って、みんなにその基本を徹底したんです。
そこからどうやって競技にのめり込んでいきましたか?
中学校に入ると、レベルが一気に上がって、最初の頃はキャッチボールすら満足にできなくて。1年生の時の全国大会では、ユニフォームももらえないし、名前すら呼ばれませんでした。いわゆる「ベンチ外」ってやつ。それが何より悔しくて。ろくにキャッチもできないから、練習にも参加させてもらえないし。
「今に見てろよ......」と思って、それから1年くらい、ひたすら壁にボールを投げてキャッチの練習です。ようやく満足にキャッチができるようになったら、次はシュート練習。そうやって段階を踏んで練習を続けていたら、1年生の冬くらいから少しずつ試合にも出してもらって。2年生からはレギュラーでした。
全国大会に出るようなチームだと、練習も相当ハードですよね。
顧問は小林先生という方だったんですけど、1年生の春に入部届けを持って行ったら、「あなたに合わせて練習はしません。どういう意味かわかる?考え直してから来てください」って、はっきり言われたんです。それを聞いたら、なんだかうれしくなっちゃって。
うれしい?
みんなと同じようにうまくなれば、この先生は私のことを認めてくれるんだって思ったら、嬉しくなっちゃったんですよ。それまでは、オブラートに包んでものを言ってくる人が多くて。そんなふうに、バンッとストレートに言ってくる人はいなかったから。この先生なら信頼して大丈夫だなと思って、すぐに「入部します」って伝えました。
健常者と対等に見てほしいという気持ちは強く持っていましたか?
多分、あったんでしょうね。「見てほしい」というより、みんなと一緒に育てられてきたので、みんなと同じように「やらせてほしい」と思っていました。でも、心の中では自分には障がいがあるということもわかっていたし、(自分に対する)大人の対応も、「沙絵はこうしてみようか?」って気を使われていることも多かったので。
辻さんはどういうポジションを任されていましたか?
私は右腕がないので必然的に左利きになるんですけど、左利きっていうのはゴールに向かって右サイドのポジションをやることが多くて。右斜め45度と右サイドの2つ。右斜め45度は、どちらかというとオフェンスのきっかけづくり。右サイドは完全に点取り屋です。バンバン走って、点を取っていく。狭い角度から切り込んでシュートを打つので、左利きが有利なポジションなんです。
ハンドボールを辞めたいと思ったことはありましたか?
ないですね。
高校は茨城の県立水海道第二高校へ進学されました。全国でもトップクラスのハンドボール強豪校だそうですね。
県立高校だったので、スポーツ推薦ではなく一般受験をして入学しました。自分がどこまでできるんだろうって、すごく期待を胸に入部したんですけど、高校生ってものすごくレベルが高くて。しかも伝統校だったので、1年生は先輩のユニフォームを洗ったり、ハンドボール以外にもやらなきゃいけない仕事がたくさんあるんですよ。でも、当時のチームには左利きが少なくて、私は1年生の時からメンバーに入れてもらって、試合にも出させてもらってました。去年の全国大会も、春、夏、国体、すべて優勝しているような、それくらいの名門校でしたけど、入部した時に「あ、私でもできることがあるな」って思ったんです。もちろん足りないことばかりだったんですけど、当時の自分でも通用する部分があるなって。
具体的には、どんな部分が通用すると感じたのですか?
フェイントからシュートに持っていく、そのスピード。あとは私、ボールへの執着心が異常に強いんですよ(笑)。こぼれ球には倒れ込んででも奪いにいっていたし、何がなんでもマイボールにするような選手だったんで。そういうところを評価してくれていたのかもしれません。
かなりけがが多かったそうですね。
中学校3年生の時に脚の靭帯を切って、最後の大会も靭帯が切れたまま出場したんです。テーピングをガチガチに巻いて、それでも得点は取っていたんですよ。でもやっぱり、このまま不完全燃焼で終われないと思って、高校に行っても続けなきゃって思っていました。高校に入っても2年生の2月に再び靭帯を切って、3年生の夏にももう1回(靭帯を)やってしまって。前十字靭帯って、普通は治るのに半年から1年くらいかかるんですけど、インターハイに出たいとお医者さんに言ったら、「切れてもいいなら、いいんじゃない?」って、半ば呆れられてしまって。それで、私も「じゃあ、やりまーす!」って。
自分の脚よりも、プレーすることを優先されたんですね。
だって、いろんなことを犠牲にして、茨城まで出てきたわけじゃないですか。それなのに、最後の集大成である大会に出られないって、何のために出てきたのかわからないですから。
日本体育大学に進んでも、ハンドボールをやろうと決めていたんですか?
(高校で)函館を出る時に、親に「体育の先生に必ずなるので、大学もしっかりそういうところへ行くので、(茨城に)出してください」と言って、出てきたんです。そこでプレゼンテーションして、OKもらって。だから、大学へ行っても当然(ハンドボールは)続けるものだと思っていたし、抵抗もなかったです。
日体大ではハンドボール部に入部しますが、その後、陸上競技に転向されましたね。パラアスリートになるまでは、どういう経緯だったのですか?
陸上を始めたのは、ちょうど大学3年生に切り替わるタイミングでした。2年生の8月の夏合宿の時に、ハンドボール部の監督から「4年間ハンドボールをやったあとに、おまえは何になりたいんだ?」って言われて。それで「私は教員になりたい。ずっと前から決めています」って、そう伝えたんです。そしたら急に「違うスポーツでメダルを目指してみないか?」って言われて。「4年間ハンドボールをやって、終わったあとに、チャレンジをしてみないか?」って言われたんです。その時に一瞬で、パラリンピックのことだって理解しました。本当にショックでした。
なぜ、ショックでしたか?
大学でもハンドボール部のレギュラーだったし、それまで、ほとんどのことが健常者と一緒にできてきた人生を送ってきて、なんで私が今さら「障がい者」っていうくくりに、自ら入らないといけないのか理解できなかったんです。私は当時、パラスポーツ=障がい者、みんなと違う人、たいへんそうな人っていうイメージを持っていました。だから、「私はそれに該当するの?」っていう気持ち。できないことなんかないし、むしろ人よりできることのほうが多いしって。
自分の右腕はないけど、世間で言う「障がい者」のカテゴリーには入ってないという意識だったと。
そうです、そうです。障がいはあるけど、自分が「障がい者」であるという気持ちはなかったんです。だから「あなたは障がい者ですよ」「障がい者のスポーツへ行ってください」って言われた気がして。「結局、先生もそういうふうに見てたのか」と思うと、すごく暗い気持ちになりました。どんなに頑張っても、そういう感じなんだって。
そこからどのような気持ちの変化があって、陸上に進もうと思いましたか?
とにかく悩んで、落ち込んでいた時に、中学時代の恩師の小林先生に連絡をとったんです。そうしたら、「(陸上転向は)沙絵にしかできないと思うし、今できることをやったらどう?」って言われて。そのあとに、高校の恩師にも連絡をとったら、「神様は乗り越えられない試練は与えないし、それは沙絵にしかできないことだと思う」って。私がすごく信頼を置いていて、私の考えもよくわかってくださる2人の先生だったから、「たしかに、そうだよな」って、そこで少し冷静さを取り戻したんです。
そこでも、恩師たちに支えられるわけですね。
はい。あとはやっぱり、自分は体育教員になりたいっていう夢が明確にあって。それで、いろんなスポーツを経験して、かつ世界を知っている、そんな先生のほうが、子どもたちが興味を持つだろうって考えたんです。その時に、「よし、じゃあちょっとやってみるか」って、初めて思ったんです。
オリンピックとパラリンピックの差を
縮められるような選手になれたらなって、
いつもそういうことを思っています
転向を決意して、すぐに陸上競技へと気持ちを切り替えることができましたか?
まずは、自分にどんな種目が合うのかをテストしてみたら、瞬発力がよかったので、やるなら陸上なのかなって。その頃、ちょうど 2020年の東京オリンピック・パラリンピックが決まって、せっかくならそこを目指そうと。でも、いきなり2020年に出るよりは、ちゃんと場数を踏んだほうがいいと思って、その手前のリオ、さらにそのリオに出場するための世界選手権、その世界選手権に出るための日本選手権......そんなふうに、2020年から逆算して短期目標を決めていったら、大学4年間が終わってから始めたんじゃ遅いことに気付いて。でも、自分はハンドボールがすごく好きで、レギュラーだったし、自分たちの代になった時にはキャプテンも任せたいって言われていて。だから、スパッと陸上に切り替えられなかった。そのまま半年以上、ハンドボールと陸上を両立していたんですけど、それじゃあさすがに体が持たないなって思って。
どこで陸上一本に絞ったのでしょうか?
2015年の世界選手権に出場した時に、山本篤選手が走り幅跳びで金メダルを獲得したんです。そのメダルセレモニーを間近で見ていて、国歌が流れた瞬間に、「いいなあ、金メダル。欲しいなあ」って思っちゃったんですよね。なぜかわからないんですよ。でも、もう自然と涙が出るくらい感動しちゃったんです。その時、自分が実際に金メダルを獲るためには、ハンドボールと陸上、どっちつかずの生活をしていたら無理だなと思ったんです。リオを目の前にして、今しかできないのは陸上。
「陸上がやりたい!」って、強く思いました。それでその年の12月に、正式に転部することになりました。
それまで長年続けてきたハンドボールへの思いより、目の前で見た金メダルへの欲が勝ったということですか?
そうですね......。やっぱり、私にしかできないことだなって思ったんですよね。例えば今、みんながパラリンピックに出たいって言っても、身体的にどこかのクラス分けに該当しなければ出られませんよね。だから、いいチャンスだなって。
昔から、辻さんにとっての自分の障がいは、常に自らを奮い立たせる原動力になっているように思います。
例えば、ハンドボールの試合でも、私を見て「あ、(この子)腕ない。当たったらマズイかなあ」って躊躇した顔している子とかいるんですよ。そういう時はチームメートに「私に 全部ボール回して」って頼んで、ガンガン行くんです。私がたくさん点を取ると、相手は「ええ!?」って驚いて、私にマークを付けてくる。そうしたら今度は自分が相手を引きつけて、逆に味方へパスを出したり。結局、負けず嫌いなんです。だから、そういうところは貪欲になれるというか。相手の予想を超えていくのは気持ちいいんですよ。「ほら見たことか!」って、そんな感じです。
ハンドボールはチームスポーツで、一方、陸上は個人競技です。転向して一番難しかった点はどんなことでしたか?
自分に集中することですね。ハンドボールの時はゲームキャプテンをやらせてもらっていたので、チームメートの調子に合わせてプレーしたり、周りを見て判断することが多かったんです。いろんな選手の表情、言葉、動きを見て、自分のプレーを決めていました。一方で、陸上って自分だけに集中しないといけないんですよ。でも例えば、試合直前に別の人の携帯が鳴っていたら、「あ、鳴ってますよ」とか言っちゃうんですよ、私。集中してないなって感じることも多くて。性格的に、周りが見えすぎちゃうんですよね。今はやっと、少しわかるようになってきましたけど。
リオの決勝直前も、集中するのにかなり苦労したようですね。
前日の夜は、本当に頭おかしくなってたんです。自分としては、死ぬか、メダルを獲るかの戦いだなって思っていたので。メダルを獲れる場所にいるからこそ、獲れなかった時のことを考えてしまう。すべての選手が、4年に一度の“そこ”を目標にやって来るんで。周りの選手のそういうオーラが、すごく伝わってくるんです。口では「メダルを獲るから!」なんて言ってたけど、獲れなかったらどうしようって、本当に不安でした。
同じようなプレッシャーは、ハンドボールをやっていた頃にはありませんでしたか?
なかったですね。とにかく、ただ楽しかったです。
リオで銅メダルという結果を残して帰国されました。
うーん、(リオでは)燃え尽きてないんでね。メダルをもらって、「これで報われた、ヤッター!」って思っていたら、すぐ横で金メダルをもらってる選手がいるわけじゃないですか。銅メダルはうれしいけど、「これじゃない感」がすごくて。
そこから、次の目標に気持ちを切り替えられるようになったきっかけはありましたか?
2017年になっていろいろ落ち着いて、やっと継続して練習ができるようになった頃に、「あ、まだ走れるんだ」って思ったんです。やっぱり練習を継続できないと、今の自分の立ち位置がわからなくなって、不安になっちゃうんですよ。(リオでメダルを獲ったことで)自分が思っているよりも大々的に報道されて、世界が変わっちゃって、そこに自分が付いていけなかったんですけど、銅メダルは個人的にはもう過去のもの。すがる気もないし、お腹いっぱいって感じ。早く次に行きたかったんですよ。今年は世界選手権があるし、今はそこに向かってがんばっています。
その世界選手権の目標は?
もちろん、メダル獲得。記録は58秒台を出せればと思っていますが、今の記録から1秒近く縮めないと......。どれだけたいへんなんだって思います(笑)。今はまだ想像がつかないですけど、その先にまた新しい景色が見えるかなって。
世界記録までの距離感はどう捉えていますか?
全然、まだまだ。リオの100メートルの決勝に出ていたY・カスティーロ選手(キューバ)は、世界記録保持者で、ロンドンの時に100、200、400メートルすべてで金メダルを獲得しているんです。その領域に少しでも近づけるように。
他競技では、パラの記録が、オリンピックの記録を上回っているものも存在します。いずれは、そういった競技が増えていくことが予想されますが、パラスポーツについて、辻さんはどんな未来を想像しますか?
私は、今回メダルを獲れましたけど、「パラだから獲れたんだよね」って思われるのがすごく嫌で。たしかに、陸上はタイムが出るので、オリンピックとどれくらい差があるのか一目瞭然です。でも、パラのアスリートは、誰も自分で自分の限界を決めていません。純粋に「あいつはスゴいんだ」っていう目で見てもらえるようになったら、いいですね。私がオリンピックとパラリンピックの差を縮められるような選手になれたらなって、いつもそういうことを思っています。