なんとかべつの方法で、
ダンサーとして見返すことはできないかって
考えるようになった。
3月下旬。東京都新宿区の某スタジオ。約束の時間にダンサーは現れる。ひと息ついてから、端のほうで準備を始めた。腕、肩、背中、腰、脚。全身の筋肉や関節をひとつずつ確認するように、じっくり伸ばしては縮める。およそ20分。それが済むと、衣装と義足(長い金属製のものと短いゴム製のもの2種)、スタジオに流す音楽(ダンスミュージックではなくバラード)についての簡単な打ち合わせをする。そして撮影は始まった。スタジオの中央に立つと、背筋を伸ばし、わずかに顎が揺れると、じわじわ身体が動きだす。腕と脚が波打って絡みつき、背中と腰は歪み、身体全体が縮こまる。一転、解放するように跳ね、左足を振り子のように使ってターンをして、助走をとって右足だけでバク転。崩れ落ちるように白い床に倒れ込み、身体をねじるようにして起き上がる。予測は不可能。不規則でリズムも不均一。一連のシークエンスを終えると、大前光市は言った。
「僕の踊りは身体の線が伸びた美しさじゃないんですよね。縮まって絡まったところに僕があるので」
そしてこうも。さらにいくつかのシークエンスを踊った後に。
「僕はいびつでいたい。歪んでいたいんです」
このダンサーの深淵に、いきなり触れたような気がした。およそ1時間の撮影が終了し(汗は首筋にうっすら滲む程度)話を聞く。もちろん気になったのはその「歪み」について。あらかじめ振り付けの決まったダンスと大前のそれは通常、相入れないものに思えたからだ。たとえば、クラシックバレエ。姿勢はもちろん足の先までピンと伸びて、リズムよく反復し、ポーズは美しく安定する。なのに大前光市は縮まって絡まって、いびつで、歪んでいたいと話す。どういうことか。
「ダンスといっても、僕の場合は特殊なので。単純に言うと、そういうほうが僕の身体に合った表現なんです。もちろん普通のダンスは安定感があったほうがいい。見やすいですし。とくに舞台の上では、不安定さは見ている側からすればただ危なっかしいだけなので(笑)、そういう要素は使わないんです。でも僕の場合は、撮影だったり、お客さんがいる場合でも、近くで見てもらえたりする場合は、歪んだ表現をしたいんですね。そうはっきり思えるようになったのは、最近の話です。ここ1年くらい。それまでは、すごくまっすぐな踊りをしていましたね」
「まっすぐな踊り」とは、たとえば2016年のリオパラリンピックの閉会式。あの巨大な競技場の、それも世界中を相手にした大舞台で、彼は4連続のバク転を含む、キレのあるダンスを披露した。彼の言葉を借りると「わかりやすーい踊り」。たしかに、派手で見栄えはいい。この日のスタジオや紅白で表現していた、身体そのものをむきだしにするような踊りとは違う。この変化にいたるまでには、もちろん、いくつかのきっかけと長い道のりがあった。
およそ20年前。大前光市はミュージカル俳優を志す高校生だった。新聞配達などのアルバイトでダンスレッスン代を稼ぎ、大学では舞台芸術とバレエを専攻。卒業後にはダンサーとして舞台に出演するようになっていた。そして金森穣というダンサー、振付家の存在を知る。海外のバレエカンパニーでも活躍した格別な才能。その人が劇場専属の舞踊団を主宰し、そのメンバーを募集していた。憧れの人のもとで踊りたい。2004年の創設メンバーに応募。
しかし最終オーディションの直前、暴走運転の車による交通事故に遭う。左脚の膝から下を切断した。けれど彼は諦めない。義足をつけて歩けるなら、踊ることだってできるはず。ふたたびゼロからトレーニングを積み、義足を改良し、オーディションに挑む。挑み続けた。4年間で4度。
しかし報われることはなかった。
「すごく執着してました。ここに入れなかったら、自分がずっとやってきたことが全部否定されるぞって。でもオーディションに落ちた時、言われたんです。君はプロにはなれない。ここには入れないって。目の前が真っ暗になった。僕はその4年間、健常者のダンサーの動きを目指して必死に練習してたから。でも実際は、全然ついていけなかったり、途中で足が痛んだり、限界を感じていたのも確かでした。それで諦めるんです。諦めるんだけど、負けず嫌いなので。なんとかべつの方法で、ダンサーとして見返すことはできないかって考えるようになった。そうなるまでには、悩みまくったし、時間、かかりましたけどね」
はっきり言えますよ。
左脚があった頃よりも、
今の僕のほうがうまく動けるようになったって
自身をダンサーとして確立するべつの方法とはなんだ。契機を与えてくれたのは、現在も所属する「Alphact」というアーティスト集団だった。あるレッスン中、彼は痛んだ左足を休めるために、義足を外して右足だけで踊っていた。その姿を見て仲間たちが言った。「それ、すごく自然でいいじゃん」。それを聞いた瞬間に思ったのは「何言ってんだ。これじゃ障がい者感がまる出しじゃないか」。それでも、そのまま舞台に出てみることにした。仲間たちの言葉には半信半疑だったけれど、予感はあったのかもしれない。果たして、義足を外した踊りは、それまでになく評価を得ることになる。これかもしれない、と思った。
「そうやって、踊りながら少しずつ見えてきて、形作られてきたんです。自分が表現者として自立できて、健常者のダンサーと肩を並べて勝負できる方法が。それが新しい心の拠りどころや自信になって、それまであった執着を、徐々に手放せるようになりました。今ではもっとはっきり言えますよ。左脚があった頃よりも、今の僕のほうがうまく動けるようになったって。左右差がある歪んだ動きは身体に負担をかけるし、そのケアやメンテナンス、それに適した鍛え方や身体づくりも自分で見つけていかなくてはいけません。いろいろ怪我や失敗もしますけど。だけどそれをやってきたから、自分の身体のことをより深く考えて、知るようにもなった。当初やりたかった踊りはできなくなったけど、そうじゃない方法で今はもっとうまく踊れるし、僕にしかできない踊りを表現者として作れますから」
義足だけど上手に踊るダンサーではなく、自分だけの動きをする表現者へ。その成果こそが、安定ではなく不安定で、直線ではなく歪みのある、均整のとれないいびつな踊りだ。私たちはオリジナルを目にしていて、それは今現在も深みを増し続けている。最近では、より総合的な演出にも視野を広げているし、アクロバットにも挑んでいるのだとか。前例なく、いつも前進しようとする。その踊りはまるで、大前光市の生きる姿そのもの。
リオ2016パラリンピック閉会式でのパフォーマンス。義足モデルのGIMICO(写真中央)や、視覚を奪われた世界の体感型ワークショップ「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」アテンドの檜山晃(写真右)らとともに、大前(写真左中央)もダンスを披露し話題となった。