私と同じように障がいを抱えているのに、
みんな後ろめたさや恥ずかしいという気持ちを一切感じさせず生活をしているように見えて。
そういう姿から何か新しい生き方を
教えてもらったというか
義足へのコンプレックスを払拭した仲間たちとの出会い
秦選手は13歳で骨肉腫を発症してから20代になるまで、スポーツとは無縁の生活を送っていたそうですね。
一番大きな理由としては情報がなかったということです。当時、パラスポーツがメディアで扱われる機会はほとんどなく、そもそも私にとってスポーツは「みんなと同じようにできない」ということが大前提だったから、そうであれば「やらない」という選択肢以外なかったんです。中高6年間は体育の授業に一切参加せず、運動会は見に行ったことすらなかった。やっぱり目の前でみんなが運動している姿を眺めているのはすごく悔しいんですよ。なんで自分だけこんな目に遭わないといけないんだって、保健室に駆け込んで泣くこともよくありました。とにかく(義足であることが)恥ずかしかったから、やらない。誰かが運動しているところも見たくないという気持ちでした。
ご両親や学校の先生にはその気持ちを伝えていたんですか?
伝えていました。私の周りにいた大人たちもパラスポーツを見たことがなかったんで、「運動できなくなっちゃってかわいそう」っていう対応しかできなくて。今思えば、そういう環境にいたということが、スポーツと関わらなかった理由のすべてだったのですが。
その後、社会人になって水泳を始めますよね。何か大きなきっかけがあったのでしょうか。
昔から体を動かすことは好きだったんです。学生のときも海外旅行の際には海で泳いだりしていたし、水泳だけは本当に大好きで。社会人になって時間ができてから、なんの気なしにスポーツクラブに通うようになったのですが、みんなと同じ更衣室は使わず事務室で着替えたり、隠れながらこっそりプールに入るって感じで。でもやっぱり、それって楽しくもなんともないんですよ(笑)。
それで自分と同じような仲間を探したいなと思って、インターネットで千葉ミラクルズという障がい者の水泳チームを見つけて。それが、パラスポーツの世界に入った最初のきっかけです。きっと誰かとつながったり、誰かに助けを求めることで自分の人生を切り拓きたいって思っていたんでしょうね。
千葉ミラクルズに参加するようになってから、実際に何が大きく変わりましたか?
それまで障がいをもった友だちが1人もいなかったので、初めて私と同じ障がいをもつクラブの代表とお会いしてから、車いすの人や目が見えない人、耳が聞こえない人、手がない人、そういう人たちと知り合うようになったんです。私と同じように障がいを抱えているのに、みんな後ろめたさや恥ずかしいという気持ちを一切感じさせず生活をしているように見えて。みんな過去どういう思いで生活されてきたかはわかりませんけど、少なくとも私にはイキイキとして見えた。そういう姿から何か新しい生き方を教えてもらったというか、考え方さえ変えれば自分もそうなれるかもしれないって感じたんです。
水泳を再開された当時、すでに競技としての水泳やパラリンピックの存在を意識していたのでしょうか。
千葉ミラクルズの一員になった2008年に北京大会をテレビで観たんです。ちょうど同じ時期に障がい者の水泳大会に出るようになって、新しくできた仲間たちが実際に北京大会で活躍したりもしていて。当時、自分はまったくそのレベルには達していませんでしたが、単純にもっと泳ぎについて教えてもらいたいと思ったんです。病気を発症する以前に水泳を習っていたとはいえ、だいぶ昔とは事情も違っていましたし。
それで、関東身体障害者水泳連盟が主催しているパラ水泳の練習会で出会ったあるコーチの元へ行って相談をしたら、「どうせやるなら4年後のロンドンを本気で目標にしよう」と言ってくれて。それからはコーチとマンツーマンで、仕事が終わったらプールへ直行し練習に明け暮れました。
2009年からは朝練をするために稲毛インターナショナルスイミングスクールにも通い始めて、競技者としてパラリンピックを目指す環境が急に整っていきました。
「4年後を目指そう」と言われて、その言葉をどう受け止めましたか。
そのコーチは本当に周りが驚くくらい厳しい方で、アスリートとしてやるべきことや考え方、立ち振る舞いなど徹底して叩き込んでくれて。私は元々アスリートではかったので、自分に対する厳しさなんてほとんどありませんでしたから。
選手村では障がいをもつ自分のほうがマジョリティで、
たまに見かける健常のスタッフのほうが
マイノリティだった。
世の中にある壁や物理的なバリアのようなものの存在を
そこで初めて意識しましたね
トライアスロンへの転向と
リオパラリンピック出場で得たもの
ロンドン大会への出場は叶いませんでしたが、その後トライアスロンへと転向して、新たな選手キャリアを歩む決断をされますよね。
結局、そのコーチが忙しくなってしまい2012年に離れることになりました。ロンドン大会への出場はできませんでしたが、当然そのまま諦めて終わるということも考えていなくて。当時、通っていた稲毛インターにはトライアスロンをやっている人たちがたくさんいて、彼らが競技を楽しんでいる様子を見てとても興味をもっていました。次の4年後、リオパラリンピックを競泳で目指すかどうか悩んでいた時に、まだ日本では普及していなかったトライアスロンに本気で取り組めば、自分がその可能性を広げる役割を担えるんじゃないかと考えるようになって。周囲の人たちの後押しもあって、トライアスロンに挑戦することに決めたんです。
一般的に考えると、トライアスロンは競技としての過酷さも一段と高い印象があります。突然始めるにあたって不安な気持ちはありませんでしたか?
どちらかというと楽しそうというか、私は最初からトライアスロンに対して変な先入観がなかったんですよね。トライアスロンを始めるきっかけや環境ってあまりないだろうし、競技を知らなければやっぱりキツそうだなってイメージが先行してしまう。私の場合は、稲毛インターというトライアスロンを自然に始められる環境があって、教えてくれる人もたくさんいたので、もうやらないわけにはいかないっていうか(笑)。
秦選手はトライアスロンという競技のどんな魅力に惹かれたのでしょうか?
私にとって水泳は自分が得意としてきたもので、そのひとつをやり続けることも大事だと思っていました。でも、自分がアスリートとしてキャリアを続けていくうえで同時に何か新しいヒントが欲しいとも感じていて、トライアスロンであれば得意な水泳を続けながら、そのうえで新しいことにチャレンジすることもできる。もっというと、苦手なことをどんどん克服していく面白さがそこから得られるはずだと思ったんです。長距離や自転車はすごく新鮮だったし、自分でもそこに可能性を感じることができた。
実際、別のスポーツをしていて、そこからトライアスロンを始める人は多いんですよ。スイム、バイク、ランっていう、基本的に多くの人が誰でも一度はやったことのあるスポーツに、それまで自分が培ってきた強みを活かすことができるからかもしれませんね。
2016年のリオパラリンピックで初出場を果たし、6位入賞に輝きました。けっして子どもの頃からパラスポーツに関わってきたわけではなかった秦選手にとって、パラリンピックへの出場はどのような意味をもつものでしたか?
自分が障がい者になって良かったなって、初めて心から思えた瞬間でした。そう思える場所が人生の中にあるということをとてもありがたく感じたし、もしその目標がなければ一生そう思うことはなかったかもしれないなと思います。私だけではなく、家族も同じようにそう思ってくれたことが何よりも一番良かったことです。やっぱり親としては自分が産んだ以上、その子の人生に責任を感じながら生きてきて、「元気な体に産めなくてごめんね」って、病気になってからもずっと言われてきました。でも、私がパラリンピックの舞台で楽しそうにしている姿を見てもらえたことで、「いやいや、大丈夫だから。ホントありがたいことだよ」って心から伝えることができたので。それはきっと私の家族にとってもとても意味のあることだったんじゃないかなって思っています。
それまで何度も世界大会には出場されていたと思いますが、パラリンピックが特別な場所であると感じたことはありますか?
パラリンピックで一番印象的だったのは選手村ですね。それまでひとつの場所にあんなにたくさんの障がいをもつ人たちが集まっている光景を見たことがなかったから。自分はずっと日本の社会の中でマイノリティとして生きてきたわけですが、選手村では障がいをもつ自分のほうがマジョリティで、たまに見かける健常者のスタッフのほうがマイノリティだった。単純に表面的なことにすぎないかもしれませんが、普段とは逆転している世界がそこに存在しているのを目にして、なぜ日本では自分がマイノリティとして生きてこなければならなかったのか、世の中にある壁や物理的なバリアのようなものの存在をそこで初めて意識しましたね。
よく言われるのが、
「トライアスロンを始めると性格が変わる」
ということです(笑)。
人に対しておおらかになったり、
気持ちがすごく開放的になったり
日々磨かれてゆく適応力と判断力
スポーツが生むつながりを大事にして
街の中で行われるトライアスロンという競技は会場となる街や自然環境などに大きく左右されるという点で特殊なスポーツだと思いますが、秦選手が競技に取り組むうえで一番大事にしていることはなんですか?
トライアスロンはまさに環境へ適応できるかどうかが自分の競技力に直結するので、数多くの海外のレースに参加して、あらゆる会場の変化や機微に自分を適応させていく能力 を身につけなければいけません。いわゆるルーティン的なものはあまりアテにならないし、とくに私の場合はそれを設けて縛られてしまうことで環境の変化に対応できず、気持ち的にマイナスに働いてしまうのがイヤなんです。計画は立てるけど臨機応変に対応することが大前提だし、海外の強い選手たちの準備の仕方を見ていると、その前提の重要さをより強く感じますね。
とくにトライアスロンはレース当日の気温や水温、風の強さで道具の準備も変わってくるし、会場へ向かうまでの道のりや時間の過ごし方も大事になってきます。私は当初、すごく細かくて小さいことにまで気を配っていましたが、それが心理的に自分を追い込むことにつながったりします。例えば義足に関しても、少しでもグラグラすれば改良しましたし、向きがズレていればストレスを感じてしまうところですが、海外の強い選手の中には、そうでもない選手もいました(笑)。いくらフィットしていてもそれが結果に繋がらないんだったら必要ないものと諦めて、効率性や妥協点をいかに見つけていくかの重要性を教えてもらいました。
あっという間に周りの環境に飲み込まれて力を発揮できないスポーツでもあるんですね。
よく言われるのが「トライアスロンを始めると性格が変わる」ということです(笑)。人に対しておおらかになったり、気持ちがすごく開放的になったり。こうでなきゃいけないとか、人に合わせないといけないとか、そういうことに囚われているとまったくうまくいかないこともあるので、見方によっては塞ぎがちな性格の人にとってすごくいいスポーツです。いくらパフォーマンスを高めようと一生懸命トレーニングしたり準備をしていっても、結局は当日、レース開始のその瞬間の適応力がなければほとんど意味がないんです。これがトライアスロンの面白さのひとつでもあると思っています。
秦選手は自身の課題として、バイクとランの強化を掲げていますね。普段どのような点にこだわってトレーニングに励んでいますか?
世界レベルで見たら、やはり私はまだまだその2種目の力が足りてません。2019年の後半、バイクに関しては義足を使わずに片足漕ぎにするという決断をしました。両足で乗るほうがスピード的には速いのですが、トランジションの短縮という理由から1年くらいかけて片足漕ぎに切り替えたんです。それによってバイクのタイムが伸びて世界でもようやく競える位置にこられたのは大きな成果ですね。
トライアスロンは道具の選択が多く、かつそれを使う、使わないの判断もしなければいけません。いろんな情報を取り入れて、ある程度はやってみてダメだったら変えればいい、と割り切っていく必要があるんです。世界的に見ても、私よりキャリアの長い選手たちがどうやら片足バイクのほうがいいと言っている、であればまずはそれを信じて試してみよう、と。
正解がなく、やってみなければわからないというのは、選手としてはなかなかトレーニングの効率が上がらず難しいですね。
まだ義足の可能性も徹底して追求されているとは言えないので、もしかしたらちゃんとしたバイク用義足をつくることができれば、そっちのほうが速い可能性だってあるんです。私は日本で唯一、装具士さんとタッグを組んで大腿義足でバイクを漕ぐということに挑戦してきましたけど、今は東京大会から逆算して総合的に判断を下し、片足バイクでやっていこうと暫定的な結論を出しているような状況です。
トライアスロンに対してはすごく個人の精神力が試される孤高な競技というイメージがありましたけど、実際には道具選びやその改良にいたる非常に繊細ないくつもの判断が伴い、かつその繊細さばかりにとらわれない状況適応力の高さが要るという、想像していた世界とはまた違う次元のスポーツだなと、話を聞いていて感じました。
とくにトライアスロンに関しては、道具づくりにたくさんの人たちが関わりますし、記録を更新していくこともライバルたちの試行錯誤がなければ成立しません。一人で黙々とやっていれば記録が伸びるような、そういう自己満足で終われる競技ではないなと思いますね。
最後に秦選手がトライアスロンを始めてから、義足や障がいに対する社会の認識など変化したと感じることがあれば教えてください。
やっぱり私がコソコソとプールに入っていた頃と比べて、トライアスロンをやるようになってから義足に対しても愛着が出てきて、もうカバーをかけて隠す必要もないんだなって心も開放的になりましたよね。それは周りじゃなくて、私自身が変わったということ。今度は私が義足をつけてプールに行くことで、それを見た周りの人たちにとって、その光景がどんどん特別なものじゃなくなっていくと思うんです。ドキッとしたり、ゾクッとしたり、怖いものを見てしまったっていうような感覚がそもそもなくなっていく。そうやって障がいに対する見方を自分が変えていく番なのかなと。
自分の人生や価値観を大きく変えてくれたものがトライアスロンで、それは人とのつながりを広げてくれたし、強くしてくれた。それは人生が豊かになるということです。社会がどうこうではなくて、誰もが障がいをもった時、体が動かなくなった時に、「まあいいか」「なんとかなるかな」って思ってもらえるように、自分が経験したようなつながりをどんどんつくっていきたいですね。私にとってスポーツをしているということは、そのつながりを生み出し続けるということでもあるんです。