パラノルディックスキー阿部選手が妊娠中もトレーニングを続けた理由

2023.05.31.WED 公開

パラノルディックスキーの阿部友里香が、2023年4月に第一子となる女児を出産した。特筆すべきは、妊娠中もトレーニングを続けたこと。オリンピック・パラリンピックを目指すトップアスリートの中には、妊娠をあきらめたり、先延ばしにしたりしている選手もいると聞く。では、阿部はなぜ妊娠することを選べたのか。また、妊娠期間をどう過ごしたのか。連載第1回目は、阿部の臨月の様子やサポート体制を紹介する。

出産もパラリンピックもあきらめない

パラノルディックスキーの阿部。2026年開催のミラノ・コルティナ大会で4大会目のパラリンピック出場を目指す

クロスカントリースキーとバイアスロンでパラリンピックに3大会連続で出場している現役アスリートの阿部は2021年3月に結婚。「以前から子どもが欲しいと思っていた」と言い、コロナ禍で開催された北京2022パラリンピック冬季競技大会の戦いを終えた後、夫婦で話し合い、子どもをもうけることを決意した。

「婦人科系の不調ですべてが思い通りに進んだわけではないですが、妊活を始めて半年後に子どもを授かることができました」

2022-23シーズンはレースに出場しなかったが、2026年開催のミラノ・コルティナ冬季パラリンピック出場をあきらめたわけではない。出産から半年後の国内レース復帰、約1年後に国際レースに出場する目標を定め、妊娠中もトレーニングを続けた。

インナーマッスルを鍛えるために通い始めた週2回のパーソナルトレーニングも続行。臨月になり「お腹が重い~!」と阿部

妊娠中もトレーニングを続けるという阿部の選択を後押ししたのが、阿部の主治医でもある、西別府病院スポーツ医学センター長の松田貴雄医師だ。

「松田先生は、女子サッカー日本代表のドクターとして帯同していた関係で、元サッカー女子日本代表の澤穂希さんの妊娠出産にもアドバイスをしていた方。先生からアメリカのサッカー選手は妊娠中のトレーニングをしているという話も聞いていたので、『出産することはアスリートにとって悪いことではない、むしろいいこともたくさんある』と知りました」(阿部)

スポーツトレーナーが見守る中でトレーニング。トレーニングジム「フィジオ」の新川加奈子トレーナーは「ジャンプ系は行わないなどは意識していますが、むやみに動きを制限するのではなく、その日の体調を見て進めています」

妊婦が運動をするといっても、せいぜいヨガやウォーキング、そしてマタニティスイミング程度。本格的なトレーニングなんてとんでもない、と思うのが一般的だろう。しかし、松田医師はこうしたイメージを真っ向から否定する。

「運動することで流産を心配する人がいるようですが、その原因のほとんどは染色体異常で、妊婦が走ったり転んだり、ちょっと無理したからといって起こるものではありません。実際、海外には妊娠中期まで妊娠に気づかずプレーしていた女性アスリートがいますし、日本でも昔は女性が出産直前まで働いていたことからも明らかです」(松田)

もちろん、妊娠期間を慎重に過ごすべき人もいる。しかし、それは全体の2.5%に過ぎず、その他の97.5%の人は、妊娠初期から積極的に体を動かすことに何の問題もない、と松田医師は説明する。

「ましてやスポーツが大好きな女性アスリートに運動を禁止すれば、それだけでストレスを感じるでしょうし、運動不足で体重が増えすぎて妊娠糖尿病などのリスクが上がる方が心配です」(松田)

何より、妊娠は女性アスリートにとって競技力アップの絶好のチャンスにもなる、と力を込める。

「女性は妊娠すると、男性ホルモンが中高生の男子並みに分泌されることがわかっています。男性ホルモンは筋肉を成長させる働きがありますから、妊娠中に適切なトレーニングをすれば、筋肉量を増やして、競技力向上につなげられるわけです。実際、アスリートの強化育成の研究が進んでいた旧東ドイツでは、女性アスリートの強化方法として妊娠が推奨されていたくらいですから」(松田)

阿部が着けていた腕時計型のウエアラブルデバイス。「交感神経と副交感神経のデータを測り、妊娠後期の睡眠の深さを確認しています」(松田)

松田医師自身は、妊娠中も妊娠前と同程度のトレーニングは可能と考えているという。ただし、妊娠を維持するために必要であり、感染防御の働きをし、早産の予防に重要な「黄体ホルモンの分泌量」、「心拍数の変化」、早産の可能性を示す「子宮口の長さ」などをチェックすることが大切という。また、お腹が大きくなってきたら足元が見えにくくなったり、うつ伏せが難しくなったりするため、個々の状況に合わせたトレーニング内容の工夫も必要だ。

なお、妊娠中のトレーニングに関する具体的な評価項目とその基準や、妊娠・出産を経験した女性アスリートの経験談といった情報は、国立科学スポーツセンター(JISS)が出している。

多くのサポートのもと雪上合宿が実現

松田医師の薫陶を受け、妊娠中も全力でトレーニングに臨む気満々だった阿部。しかし、「妊娠中ぐらいゆっくりしたら」「そんなに焦ってトレーニングする必要はあるのか」「出産で腹直筋が伸びたり骨盤がゆるんだりするなど、女性の体は変わる。出産後、頑張ればいいから妊娠中のトレーニングは不要」といった妊娠や妊婦のトレーニングに対する誤解や理解不足に直面し、歯がゆい思いをすることもたびたびだったという。

トレーニングの記録をつけたり、病院での定期健診を行ったりしたうえで出産直前まで体を動かした

その阿部をサポートしたのが、日本障害者スキー連盟だ。

「私たちは、友里香ちゃんのように才能あふれる選手には末永く活躍していただきたいと思っています。少子化で今後、ますます選手候補が少なくなることを考えても、また、女性活躍という点においても、妊娠中も強化指定選手として活動したいという友里香ちゃんの希望を受け入れ、支えることは必要、との結論に至りました」

こう説明するのは、日本障害者スキー連盟女性チームの田原麗衣リーダーだ。もっとも大切なのは、気軽に相談できる女性スタッフの存在だろうと、まずは田原さんを中心に女性チームを発足。所属先企業に妊娠中の活動継続への理解を求めたり、JISSの指導を仰ぎながら、阿部の地元にトレーナーを派遣したり、合宿地の選定や合宿中の医療機関の調整などに奔走した。

そして、阿部は妊娠4ヵ月目の10月まで他の選手とともに強化合宿に参加。12月には阿部のために計画された雪上合宿に参加した。
「私の場合、悪阻もほとんどなく、体調がよかった。松田先生がいる病院で定期的に診察を受け、血液検査やホルモン検査などの数値を見てもらいながらトレーニングを続けました」

雪上合宿で笑顔を見せる阿部 photo provided by Abe herself

実際に、臨月の阿部のもとに派遣された渡瀬由葉トレーナーは言う。
「合宿に来る前は、アクティブな友里香ちゃんのことだから、おなかが大きくなってからも頑張りすぎてるんじゃないかな、と思っていました。だけど、強度をおさえてトレーニングしているし、友里香ちゃん自身が血圧や心拍数を測り、しっかり体調管理している様子を見て安心しました」

この日はポールウォークで約1時間歩いたあと、パーソナルトレーニングジムに向かった。平地でのローラースキーや約1時間の登山で汗を流す日もある

多くのサポートのもと、出産予定日の3日前までトレーニングを続けた阿部。とにもかくにも、今の状況で許される限りのことはやった、というすがすがしい気持ちとともに、初めての出産に臨んだ。

<【連載2】産前トレーニングは効果大!? パラノルディックスキー阿部選手の出産ストーリー

阿部友里香|パラノルディックスキー

岩手県山田町生まれ。2010年バンクーバーパラリンピックをテレビで観たのがきっかけで、15歳で競技を始める。クロスカントリースキーとバイアスロンでパラリンピックに3大会連続出場。左上腕機能障がい。日立ソリューションズ所属。

text & photo by TEAM A

『パラノルディックスキー阿部選手が妊娠中もトレーニングを続けた理由』