【平成プレイバック】パラリンピック、パラスポーツ躍進の時代
2019.05.10.FRI 公開
平成の約30年間はパラスポーツにとって大きな変化の時代だった。もともとリハビリの一貫として始まった障がい者スポーツが、健常者と同様のスポーツとして捉えられるようになり、競技性が強まったのも平成という時代。国内でもスポーツ施設が整備され、さらには平成25年に東京2020パラリンピック開催が決定し、障がいのある人を取り巻く環境の変化のスピードは加速した。ここではパラリンピック、パラスポーツに関わる平成のトピックスについて振り返ってみたい。
平成元年 1989年
【column】パラリンピックってどういう意味なの?
「Para(沿う、並行)」と「Olympic(オリンピック)」を合わせて「Paralympic(パラリンピック)」と呼ぶ。「Paraplegia(下半身まひ)と「Olympic(オリンピック)を合わせた愛称として使用されていた歴史も。
「Para(沿う、並行)」と「Olympic(オリンピック)」を合わせて「Paralympic(パラリンピック)」と呼ぶ。「Paraplegia(下半身まひ)と「Olympic(オリンピック)を合わせた愛称として使用されていた歴史も。
平成3年 1991年
平成4年 1992年
(日本は75選手が出場、金8銀7銅15個を獲得)
(日本は15選手が出場、金0銀0銅2個を獲得)
平成6年 1994年
(日本は27選手が出場、金0銀3銅3個を獲得)
平成7年 1995年
政府の障害者対策推進本部により、生活の質(QOL)の向上を図るためのひとつとして障がい者スポーツの振興が目標に掲げられ、ソフト・ハード面の整備推進が急がれた。
平成8年 1996年
(日本は81選手が出場、金14銀10銅13個を獲得)
パラリンピックの成績優秀者が総理大臣と厚生大臣から初めて表彰されたのもアトランタが初。この頃から障がい者スポーツが社会的に認知されてきたといえるだろう。
平成10年 1998年
「長野1998パラリンピック冬季競技大会」開催
(日本は70選手が出場、金12銀16銅13個を獲得)
【column】「一国一校運動」って知ってる?
オリンピック・パラリンピック開催都市の各学校がひとつもしくはいくつかの国と地域を選び、その国や地域の文化や言葉を学んだり、アスリートを招いて国際交流を図った。この「一校一国運動」は長野大会で始まり、世界各地で継承されている。
オリンピック・パラリンピック開催都市の各学校がひとつもしくはいくつかの国と地域を選び、その国や地域の文化や言葉を学んだり、アスリートを招いて国際交流を図った。この「一校一国運動」は長野大会で始まり、世界各地で継承されている。
【column】社会が変わる大きな契機に!
自国開催のパラリンピックがテレビや新聞で大きく報道され、障がい者におけるスポーツ活動や社会参加への意欲が促進されたと言われる長野大会。競技場へのアクセスの増大など改善もなされたが、東京大会ではハード・ソフト両方のバリアフリー化の進展も注目されている
自国開催のパラリンピックがテレビや新聞で大きく報道され、障がい者におけるスポーツ活動や社会参加への意欲が促進されたと言われる長野大会。競技場へのアクセスの増大など改善もなされたが、東京大会ではハード・ソフト両方のバリアフリー化の進展も注目されている
平成11年 1999年
平成12年 2000年
(日本は151選手が出場、金13銀17銅11個を獲得)
IPCは当面、知的障がいをパラリンピックから排除する措置を取ったが、ロンドン2012パラリンピックでは陸上競技、水泳、卓球の競技種目が復活した。
平成13年 2001年
障がいの種類やレベルによるクラス分けをできるだけ削除し、エリート性を高めて種目数を削減するなどの細かい合意がなされた。
別々に開催されてきた「全国身体障害者スポーツ大会」と「全国知的障害者スポーツ大会(ゆうあいピック)」を統合して開催。
平成14年 2002年
政府は2003年度から2012年度までの10年間に取り組むべき障がい者施策の基本的方向を策定。なお、障がい者スポーツの振興については日本障害者スポーツ協会を中心に進める旨も記された。
(日本は36選手が出場、金0銀0銅3個を獲得)
平成15年 2003年
平成16年 2004年
(日本は163選手が出場、金17銀15銅20個を獲得)
平成18年 2006年
(日本は40選手が出場、金2銀5銅2個を獲得)
平成20年 2008年
「北京2008パラリンピック競技大会」開催(中国)
(日本は162選手が出場、金5銀14銅8個を獲得)
パラリンピックは、原則としてオリンピックと同じ都市・同会場で行われることが招致の条件となり、北京大会以降、同じ都市で行われている。
平成21年 2009年
北京2008パラリンピックのメダリストに初めて報奨金が贈呈された。
平成23年 2011年
障がい者のスポーツ振興について初めて言及され、国の責務と日本障害者スポーツ協会の責務が明示された。
平成24年 2012年
(日本は134選手が出場、金5銀5銅6個を獲得)
【column】成功のカギとなった「Get Set」
ロンドンでは大会前に、子どもたち向けのオリンピック・パラリンピック教育プログラム「Get Set」が制作され、パラリンピックに興味を持った子どもたちから家族に広がった。大会が終了した後もレガシーとして受け継がれている。
ロンドンでは大会前に、子どもたち向けのオリンピック・パラリンピック教育プログラム「Get Set」が制作され、パラリンピックに興味を持った子どもたちから家族に広がった。大会が終了した後もレガシーとして受け継がれている。
【column】大会をともに作り上げたボランティア
ロンドン大会ではボランティアが「ゲームズメーカー(大会を作り上げる人)」と呼ばれ、一人ひとりが誇りを持って運営を支えた。東京大会でも8万人以上の大会ボランティアが活躍予定!
ロンドン大会ではボランティアが「ゲームズメーカー(大会を作り上げる人)」と呼ばれ、一人ひとりが誇りを持って運営を支えた。東京大会でも8万人以上の大会ボランティアが活躍予定!
平成25年 2013年
平成26年 2014年
(日本は20選手が出場、金3銀1銅2個を獲得)
日本障害者スポーツ協会が「全国障害者スポーツ大会」などスポーツ振興の観点が強い事業を行っていることにより、移管された。
平成30年 2018年
(日本は38選手が出場、金3銀4銅3個を獲得)
日本車いすバスケットボール選手権大会(天皇盃)、日本女子車いすバスケットボール選手権大会(皇后盃)、飯塚国際車いすテニス大会(男子シングルス優勝者に天皇盃、女子シングルス優勝者に皇后盃)、全国車いす駅伝競走大会(天皇盃)。
パラリンピックが世界で3番目に大きなスポーツイベントと言われるまでに成長し、「障がい者スポーツ」が国内で「パラスポーツ」という言葉に言いかえられ、認知度が上がったのも平成の時代だった。さて5月1日から始まった新時代「令和」はパラスポーツにとってどんな歴史になるのだろうか。
text by TEAM A