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カヌー
“水上の自由”のトリコに~パラカヌー先駆者が語る草の根活動への情熱
カヌーに乗って水に浮かぶと、目の前に開けるパノラマ。
そんな自然の美しさ、それを仲間と共有できる“楽しさ”、非日常の“自由”……自分自身も感じたカヌーの醍醐味を多くの人に感じてもらいたいと普及活動に情熱を傾ける人物がいる。
30歳を過ぎた頃、初めて体験教室に参加したことでカヌーのトリコになった日本障害者カヌー協会の吉田義朗会長だ。
「初めて艇に乗ったときは、あめんぼになったような気持ちで。感覚が研ぎ澄まされるのか、水面では周りの音も静かになり、自然を存分に感じることができる……すぐにハマりましたね。そして、プカプカと浮きながら感じた一番の喜びは、思ったところに行けるという“水の上の自由”でした」
吉田会長は障がいのあるカヌー乗りの先駆者だ。東京2020パラリンピックを前にした今、多くの施設におけるバリアフリー化の必要性が当たり前のように叫ばれているが、1990年代当時の建物は段差という障壁だらけで、障がい者用のトイレもほとんどなかった。だからこそ、感じた“水の上の自由”ーーそんな吉田会長の想いと共に、国内における障がい者カヌーの歴史は始まった。
始まりはカヌー教室
吉田会長が奈良で初めてカヌーに乗った日、同じ場所を訪れていた車いすユーザー藤村真司さんとの出会いもあった。ともに活動する仲間の存在も大きかったことは間違いない。吉田会長は、後に京都でもカヌー教室を開催。1995年には日本障害者カヌー協会が発足された。
その後、アウトドアショップ店長なども務め、カヌーイストとしてはカナダ・ユーコン川のツーリングを楽しむなどアクティブに活動を続ける吉田会長。
アウトドアブームだった1990年代を振り返ってこう語る。
「カヌーに出会ってから、いろいろな挑戦をしました。チェアスキーを持って雪山にも行きましたが、リフトに乗ることさえ許されず、泣いて帰ったのを覚えています。障がい者であろうとなかろうと誰もがスポーツできる場所を国内にもっと増やしていかなければならないと身をもって実感したんです」
そんな吉田会長は現在66歳。若い頃はいわゆる活動家だった。1960年代から70年代にかけて展開された成田闘争の現場では、新東京国際空港の建設に反対する地元住民を支持し、地下にもぐった。そのなかで落盤事故に遭い、脊髄を損傷したのだ。
「みんなの生活を守ろうと体を張っていました。事故から命が助かったときの安堵感とともに、あのときの悔しさは今でも忘れていません。弱い立場の人を助けたいという気持ちは、当時と今の活動で共通する部分かもしれないですね」
6月のパラチャには107人がエントリー!
パラマウントチャレンジ(最高の挑戦)カヌー、通称パラチャ。いつしかこう呼ばれるようになった乗艇イベントは、障がい者だけでなくだれでも参加可能だ。6月9日に石川県小松市の木場潟カヌー競技場で行われた「第2回パラマウントチャレンジ200m競漕In木場潟」には子どもから大人まで107人がエントリーした。
左下肢切断の冨岡忠幸さん(40歳/滋賀県カヌー協会)は、パラカヌーを始めたばかり。「約1年半前に岐阜で行われた体験会に参加したのがきっかけで、本格的に競技を始めました。今回はレースもあった他に、みんなでドラゴンサップに乗ったのが面白かったです」と話してくれた。
この日は、2024年のパリパラリンピックを目指す選手の姿もあった。宮嶋志帆さん(27歳/埼玉県カヌー協会)は「パラチャは障がいの有無、年齢、性別など関係なく出場できるとてもフランクな大会。楽しく臨めたからでしょうか、今回はいい記録が出ました!」と声を弾ませた。
常々「普及と強化の両輪で動かなければこのスポーツの発展はない」と話している吉田会長は熱っぽく言葉を紡ぐ。
「パラカヌーは練習するための場所が多くない。この活動を通じて、どこの場所であろうと日本全体でパラカヌーができる場所をつくることが目標。2020年以降、だれもが気軽にスポーツができる社会になり、先天性障がいの子どもたちが『スポーツって楽しい』と感じられるようになるといいですね」
東京2020パラリンピックでも注目の競技カヌー。頂点を目指す選手の挑戦の影に、草の根のドラマがあった。
text by TEAM A
photo by X-1
※本事業(第2回パラマウントチャレンジ200m競漕In木場潟)は、パラスポーツ応援チャリティーソング「雨あがりのステップ」寄付金対象事業です。