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地元江東区で一番輝くメダルを目指したカヌー・瀬立モニカ。感謝と悔しさを胸にパリへ誓い
一生に一度の「地元開催」を終え、カヌー会場のある地元江東区で生まれ育った瀬立モニカは東京パラリンピックまでの道のりを振り返った。
「金メダルを目指して5年間進んできた。悔しい気持ちはすごくある。でも、今日はたくさんの人たちの愛を感じながら漕ぐことができた。7位という結果はリオ(8位)からちょっと上がっただけだけど、楽しいレースでした」
決勝レースで5年間の進化を証明!
パラリンピック初出場だった5年前、決勝は1分9秒台でびりっけつだっだ。そこから奮起した瀬立は、一年のほとんどを水辺で過ごし、中盤以降のスピードや持久力を磨いた。2019年の世界選手権で5位に躍り出ると、現実的に見えてきたメダル獲得に照準を合わせた。そして、今大会の決勝で57秒台を記録。着順を競うカヌーにおいて単純にタイムで比較することはできないが、瀬立は200mスプリントをリオ大会の決勝より約11秒も早く漕ぎ、優勝タイム(58秒)を超えるタイムでフィニッシュし、成長を見せたのだ。
レースを終えた後、瀬立はしばらく艇に乗ったまま、水面からの景色を眺め、地元でのレースを終えた余韻に浸っていた。
高校1年生で車いす生活になってから、生きる希望が東京パラリンピックだった――。
「ここは自分が目指してきた夢の舞台。とにかく、海の森水上競技場に、そして江東区にありがとうという気持ちでした」
前回のリオ大会。地鳴りのような歓声の中で、リオデジャネイロ出身のカイオ・リベイロ・デ・カルバリョ(ブラジル)がメダルを獲った。その熱狂に圧倒されながら、瀬立は「東京では私が主役」とイメージを膨らませたことだろう。しかし、新型コロナウイルス感染症流行の影響は大きく影を落とす。東京大会は1年延期を経て無事に開催されたものの、無観客で行われ、さらに区内の学校連携観戦も中止を余儀なくされた。地元の大声援のなかでフィニッシュする――そんな瀬立の夢はかなわなかった。
それでもライブ中継やメディアを通し、全力で世界と戦う自分の姿を多くの人に見てもらいたい。その一心でこの日まで突き進んできた。
地元に愛される選手だ。2015年に国際大会へ初出場し、2016年のリオ大会も地元の熱い応援で送り出された。江東区カヌー協会の選手として活動し、たびたび区報で紹介され、役所に写真が展示されるなど応援される存在になった。江東区の企業もスポンサーとして競技生活をバックアップした。
2019年8月、ハンガリーで行われた世界選⼿権で5位になり、東京パラリンピックの出場切符を手に帰国した際、江東区のカヌー関係者らは成田空港で瀬立を出迎えた。地元の愛を感じるとともに、瀬立はメダルへの思いを強めたことだろう。今大会に向けては「モニカ」の名前が入った応援団扇やタオルなどを後援会が販売。競技会場には、競技役員やメディアの中に瀬立の名前が入ったピンバッジやTシャツを身に着けている人もいた。
モットーは「笑顔は副作用のない薬」。その言葉を授けた母・キヌ子さん譲りの明るい笑顔で多くの人を惹きつけてやまない。そんな瀬立がぐんぐん強くなっていく姿を地元のカヌー関係者らは誇らしく見守った。
2年ぶりの世界大会に苦しんだ
そして迎えた地元のパラリンピックは苦しい始まりだった。競技初日の予選では、急な気温の低下で体が動かず、全体8番目のタイムに沈んだ。ショックを引きずり、眠れなかった。瀬立にとって約2年ぶりの国際大会であり、世界の強者たちと戦うことが怖かった。ようやく覚悟を決めたのは、準決勝の1時間前だった。「コーチたちが前向きな気持ちにしてくれました」。自身が「納得のレース」と振り返った準決勝を経て、前述のとおり決勝ではタイムを伸ばした。
「(東京大会開催に対して)いろんな意見がある中で、区民のみなさんが受け入れてくれてありがたかったです。ボランティアさんから『私も江東区民なんです、頑張ってください』と声をかけてもらって『これが地元で開催されるパラリンピックなんだ』と感じられることもできました」
試合後の報道エリアでは、地元の人たちへの感謝を口にした。
まだ23歳。東京パラリンピックを集大成と位置づけて臨んだが、パラリンピックは、これが最後にはならないようだ。
「メダルを獲らないと終われない。(今年度)大学を卒業して(医者になるため)医学部の受験勉強と並行しながらパリを目指したい」
パラリンピックが閉幕した今も、練習拠点とする旧中川・川の駅には瀬立を応援するのぼりがはためいている。生まれ育った町は、これからも「江東区の星」瀬立モニカを応援し続ける。
text by TEAM A
photo by Getty Images Sport