「車いすテニス大会のサポートが天職」日本車いすテニス協会 佐々木留衣さんのワークヒストリー

2018.05.15.TUE 公開

3歳にして地元の街をあげたイベント「飯塚国際車いすテニス大会(Japan Open)」を初体験。大会とともに育った佐々木留衣さんが、日本車いすテニス協会で働くまでのワークヒストリーから、2020年の後に期待する未来について迫りました。
≪前編:車いすテニス大会に育てられた幼少期はこちらから≫

<パラアスリートを支える女性たち Vol.01>
ささき・るい 一般社団法人日本車いすテニス協会 広報部次長(事務局兼任)
飯塚国際車いすテニス大会(Japan Open)選手サービス・広報委員長

車いすテニス大会のサポートは、やっぱり天職

子ども時代は車いすテニス大会とともに育ち、大学時代は事務局スタッフとしてたずさわってきた佐々木さんには、一方でグランドスタッフになる夢もありました。きっかけは小学4年生でのフランスひとり旅。“空港でアテンドしてくれた働くカッコいいおねえさん”になるべく、大学卒業後は航空関連会社に新卒入社。グランドスタッフとして4年間勤務する中で、興味をもっていた部への異動も実現。そんな充実した日々のさなかに結婚話ももちあがります。当時の仕事は空港に近い場所に住むことがマスト。でも、夫の通勤には不便なエリアでした。仕事か結婚か、佐々木さんは半年間ほど迷い、悩んだそうです。


――答えを出すために、何かきっかけとなるできごとはありましたか?

母の言葉に背中を押されました。ふだんあまり悩まないタイプの私が、仕事を辞めるかどうかで半年ほど迷っていたら「あなたが迷うのは珍しい。たぶんすごく素敵な人なんだと思う。結婚したほうがいい」と言われて “確かに”と、ハッとして。グランドスタッフを辞めて転職し、結婚に踏みきりました。

ところが夫の海外赴任が突然決まって、27歳でマレーシア生活がスタート。人生の急展開に驚きました。しかしこの赴任が、再び車いすテニス大会に関わるきっかけとなったのです。グランドスタッフ時代はひたすら業務に打ち込み、大会時期に帰省することはできませんでしたが、マレーシアでの私は妻として現地の人間関係づくりに注力する日々。働かない状況は自分にむいてないとも感じていました。

そんなときです。久しぶりに父から「最近、どうしてる? 大会の人手が足りないんだ」と連絡があったのは。偶然一時帰国する時期と重なっていたので「手伝いに行く!」とふたつ返事でOKしました。やってみたら、すでに社会人経験もあるために学生時代よりも動ける自分に気づいて、うれしくなって。そこからは毎年、大会時期になると主人に「ごめん」とわびて、大会2か月前から終了後まで、定期的に長期間帰国する生活が始まったのです。

昨年、大会初日の朝のミーティング後に撮ったスタッフ集合写真。

日本車いすテニス協会からもうれしい打診

佐々木さんがヘルプを頼まれたのは、折しもリオパラリンピックの前の年。第31回 飯塚国際車いすテニス大会では、国枝慎吾選手と上地結衣選手が優勝し、観客動員も約5000名と盛り上がりをみせました。大会が無事終了して、実は夫の帰任が決まっていた佐々木さんがみんなにそのことを告げると、“Japan Openの申し子が帰ってくる!”とすぐに噂が広まりました。果たして帰国後の仕事探しをしていた彼女に、日本車いすテニス協会の事務局長から正式オファーが。


――昨年6月から東京事務所に席を置き、今年2月には広報部次長を任されたそうですが。

友人たちには、“とうとう仕事にしたね”と言われました(笑)。ですが、日本車いすテニス協会での業務はこれまでの大会運営とはまったく違い、文字どおり日々奮闘しています。助成金業務や経理、活動報告書を作成するほか、今年からは、急務だったスポンサー獲得のために広報部次長として都内を走り回っている日々です。着眼点や使う知識、スタンスが異なるだけでなく、もっている情報量も経験値も足りていません。関わってくださる方に失礼のないよう周囲に助けていただき、勉強しながら、どうにか懸命に学んでいるところです。

はたからみれば、素人の私がなぜ、大きなミッションを担っているのか、不思議に思う方もいるかもしれません。その背景には、パラスポーツの競技団体はボランティア組織から出発するケースが大半という現状があります。うちの協会も “車いすテニスの普及”に賛同する二足のわらじをはくスタッフの手により運営されてきた経緯があります。社団法人になったのも2015年。十分な財源もなく、草の根をかきわけるような進み方をしているからこそ、今後きちんとすそのを広げられるような体力をつけなければと思っています。

個人的には、毎日、満員電車に揺られて往復4時間通勤するのが、けっこうしんどいときもあったりします(苦笑)。「東京2020」が目前に迫り、業務のスピード感も上がりました。今は本当に目の前の仕事に対応することだけに専念して、寝て起きてすぐに仕事に行って、というくり返し。でもそんな私を夫は、帰宅時間が遅くなろうが出張で不在になろうが、“何も言わない”という形であたたかく支えてくれています。そのことは本当に、しみじみとうれしいですね。

スケジュール帳や大会資料が広がる、東京事務所(パラサポ内)の佐々木さんのデスク。

ひとりの女性として見つめる未来

――大好きで愛着もある、車いすテニス界を支える仕事。そのモチベーションとなるものはなんでしょうか。

3歳のころから関わっている車いすテニスの世界。「飯塚国際車いすテニス大会(Japan Open)」では今年から天皇杯・皇后杯をさずかるという歴史が変わる瞬間に立ち合えます。ご縁がつながり今は日本車いすテニス協会に所属して、「東京2020」を迎えるところに立っているというだけで、すごく光栄なことだと思っているんですね。

でも、数年前に少しいろいろなことがあって、自分自身の幸せってなんなのか。これからの人生で私の原動力になるものはなんだろうと、ふと、考えてみたことがあるんです。その結果、“今は思いっきり仕事をして、思いっきり遊ぶ”という結論に至りました。今は遊べてはいませんが(笑)、好きな仕事をものすごくがんばっているところです。好きなことの中でもがきながら生きていられるのは、ある意味とてもしあわせで、だからこそ、がんばれるのかもしれません。

ひと盛り上がりして忘れられたら悲しいから…

――2020年に向けて、期待するものと実現させたいことは、なんでしょう。

個人的には、各地で行われている、パラスポーツの大会やイベントに訪れる人が増えたり、関心をもつ人が増えるといいなと思っています。2020年が一時的なスポーツの祭典で終わらないように、そこから何かが派生して、住みよい街づくりや語学の発展などにもつながってほしいです。今はかなり注目度が上がっていますが、こんな言い方しちゃいけないんですけど、ひと盛り上がりして、忘れ去られてしまったら悲しいなと思うので…。競技の魅力を伝えて、大会にハマって観に来てくれるような観客のみなさんが増えてほしい願いは常にありますね。生で観ることの大切さってあると思います。選手たちの息づかいだったり、球を打つ音だったりを聞いてほしいです。

日本車いすテニス協会としては、2020年を目前に、今はまだもがいているような状況です。2020年の後に私が今のポジションで、何を目標にやっていきたいかというと、これまで以上に協会同士の横のつながりを強めたり、ほかの各都道府県で行われている国際大会を知って、きちんと全国の車いすテニスの底上げというか、普及のようなものに力を入れられる人になりたいなと思っています。

ちなみに私が感じている車いすテニスの選手の魅力は、みなさんすごく「気持ちがいい」ことですね。あたたかいですし、礼儀正しい。個人としてツアーに参加して、個人としていろんなものと闘ったり感謝しながら、毎年飯塚に帰ってきてくれるんだなと大会運営のときに感じます。それがすごく素敵だなと思います。

そして、今年「飯塚国際車いすテニス大会(Japan Open)」は第34回を迎えました。幼なじみじゃないですけれど、この大会とは一緒に育ってきた感じがします。私を小さいころから見守ってくれたスタッフの方も、最近では頼りにしてくれたり、同じ職場で一緒に何かをしている感じになってきました。

長年力を合わせて大会運営してきたスタッフは皆、家族のような存在。最近ではアシスタントディレクターの有吉さん(写真中央男性)からも頼りにされ、それが何より嬉しいと佐々木さん。

34年も手づくりしてきた大会なので、もうそれぞれのもち場のプロがいるんですよ。各自準備を進めて、それが大会当日を迎えたときにバチッとハマる。いつもどおりに大会が始まって、そして毎年最終日までにいろんな問題が起こるんですけど、それをクリアしながら表彰式を迎えたときに、いちばんのやりがいを感じますね。

text by Mayumi Tanihata
photo by Yuki Maita(NOSTY)

一般社団法人 日本車いすテニス協会
http://jwta.jp/

JAPAN OPEN 2018 – 第34回 飯塚国際車いすテニス大会
http://japanopen-tennis.com/

≪ JAPAN OPEN 2018 ≫
日程:2018年5月14日(月)~ 5月19日(土)
会場:福岡県飯塚市・筑豊ハイツテニスコートなど

『「車いすテニス大会のサポートが天職」日本車いすテニス協会 佐々木留衣さんのワークヒストリー』