メンタルが不安定な若いアスリートのために、私たちができることは?精神科医がアドバイス

2022.06.01.WED 公開

ここ数年、トップクラスのアスリートが自身のメンタルヘルスの不調について、公に発言することが増えてきた。特にプロテニスプレーヤーの大坂なおみ選手が、2021年の全仏オープンで試合後の記者会見を拒否したことは世界中を巻き込んで議論となった。極度のプレッシャーと向き合うアスリートは、時にメンタルに大きな負担を抱えてしまう。そんな彼らが最高のプレーをできるようにするために、私たちには何ができるのだろうか? アメリカ在住の小児精神科医で、ハーバード大学医学部助教授、マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長の内田舞氏にお話を伺った。

メンタルヘルスの先進国、アメリカにおけるアスリートの実情

アスリートのメンタルヘルスについて講演する、精神科医で、ハーバード大学医学部助教授、マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長の内田舞氏

アメリカ在住の精神科医、内田氏はメンタルヘルスの先進国であるアメリカでさえ、アスリートのメンタルヘルスがオープンに語られるようになったのは、ここ最近のことだと言う。

「アメリカには以前からスポーツサイコロジー(スポーツ心理学)という分野があって、スポーツチームがメンタルトレーナーを雇うケースがたくさんありました。しかしそこで重視されるのは、主に勝つための精神状態を作る心理学です。セラピーセッションも、勝つための精神状態、一番いいパフォーマンスができる精神状態を作ることが主目的であることが多いんですね。もちろんそれも重要です。しかし、勝つためだけではなくて、同時に選手個人が幸せになるための心理学も必要だと思うんです。
アスリートが勝ちたいと思うのは当然ですし、健康的な考えです。しかし、その際、勝利か自分の幸せのどちらかを選択しなければならないわけではないはずです。ようやくここ数年、アメリカではそうした選手の幸せというものが重視されるようになってきたと思います」

その象徴的な例として内田氏があげてくれたのが、コロナ禍で大人気となったテレビドラマ「テッド・ラッソ」。これはアメリカンフットボールのコーチが、サッカーのコーチに転身するというコメディドラマだそうだが、セカンドシーズンでは、主人公がコーチを務めるサッカーチームにスポーツサイコロジストがついて、選手やコーチをカウンセリング。心のしがらみを取っていくといったことがテーマになっていたそうだ。

転機は、あのトップアスリートの勇気ある言動

2021年、全仏オープンの女子シングルス大会1回戦の試合後、記者会見は拒否したものの、コートでインタビューを受ける大坂なおみ選手

こうしたアスリートを巡るメンタルヘルスに関する事情には、2021年の全仏大会においてプロテニスプレーヤー大坂なおみ選手がTwitterにあるメッセージを掲載したことが大きな影響を与えたと内田氏は語る。

2021年5月27日、3日後に全仏オープンの出場を控えた大坂なおみ選手が、自身のTwitterで大会中は記者会見に応じない意向を示した。大坂選手は「アスリートの心の健康状態が無視されていると感じていた。自分を疑うような人の前には出たくない」という主旨の理由を記した(原文は英語)。全仏オープンを含むテニスの4大大会では、選手の記者会見は義務のひとつとしてルールブックに明記されており、拒否した場合は高額の罰金が科せられる。それでもなお拒否したことに対して、世論は二分された。彼女を賞賛する声がある一方で、記者会見に応じるべきだという批判の声もあがった。さらに他の世界的なプロテニスプレーヤーたちも自身の意見をSNSに綴り、世界中が注目することとなった。その影響を内田氏は次のように話す。

T前五輪で金メダルを総なめにしたシモーン・バイルス選手。東京2020オリンピックで、団体決勝を途中で精神的な理由で棄権した。彼女が棄権後、代役として出場したチームメイトの活躍もあり、銀メダルを獲得

「もしも世界ランキングが彼女ほどではなく、30位の選手が自分のメンタルヘルスのために取材には応じませんと言っても、インパクトはなかったと思うんですね。あの一件の2ヶ月後に、アメリカ体操代表のシモーン・バイルス選手が、東京オリンピックの団体決勝を「自分のメンタルヘルスを守るため」という理由で途中棄権したんです。彼女はアメリカ体操界のスーパースターで期待されていましたが、大坂なおみ選手のときほどのバッシングはありませんでした。2ヶ月の間にアスリートのメンタルヘルスをどう扱うか、メディアがどのような対応をするかというのが議論されていたので、バイルス選手への反応は明らかに以前とは違っていたと思います。大坂選手が火をつけてくれたおかげで議論が進み、その恩恵を受ける選手が出てきている。まだ去年の出来事ですが、短期間で大きく変化していると思います」(内田氏)

脳は20代まで成長し続けている

精神科医として現役で活躍中の内田氏

こうしたメンタルヘルスの問題が議論されるときに、日本でよく聞かれるのが「鍛え方が足りないからだ」「辛さを乗り越えなければ強くなれない」といった、メンタルと肉体を混同した意見だ。しかし、こうした考え方に内田氏は警鐘を鳴らす。

「体を鍛えたり過酷な環境に身を置いたりして体が慣れてくればメンタルも強くなるとか、そういう単純なものではないんです。メンタルヘルスの症状というのは遺伝などの生物学的な要因と、環境的な要因が関係していて、2つが複雑に絡み合っています。たとえば同じ環境に置かれても鬱になる人とならない人がいますが、それは同じ環境に置かれても骨折する人としない人がいるのと同じです。同じ転び方をしても骨密度が高ければ折れないし、骨粗しょう症のような骨密度であれば折れてしまいます。そのように、生物学的な要因や遺伝的要因が絡み合って発症することが多いのです」(内田氏)

たとえば子どもの時に虐待されていたかいないかを比べたら、もちろん虐待されていた人の方が心の傷を負うリスクが高い。アスリートが置かれている環境も同じだと内田氏は分析する。

「トップアスリートは若い選手が多いです。たとえばオリンピックに出ている選手というのは、ほとんどが10代から20代前半。人間の脳はだいたい20歳後半くらいまで発達し続けますから、大抵のトップアスリートは脳が発達段階にあります。感情を感じる脳の部位は割と早めに発達しますが、感情をコントロールする部位はもうちょっと後での発達になるので、10代から20代の前半ではいろいろな感情が湧くけれども、それをコントロールする能力がまだ完全には備わっていない状態です。
オリンピアンでなくても、たとえば10代、20代で大変な恋愛をしていたような人が30代ぐらいで落ち着くとか、あるいは若い時はお酒を飲むと変なことをしていた人が、年を重ねてしっかりした家庭人になったなどということがありますよね。つまり、人間の脳って変わっていくものなんです。そんな脳の発達する途中にありながら、責任の重い凄く大きな判断を迫られることを、アスリートたちは日常的に経験しているわけです」(内田氏)

トップアスリートほど、実は安定したメンタルを築きづらい環境にさらされる

内田氏は、メンタルヘルスを守るには、自尊心や自己肯定感といった内面的なものを育てることが重要で、それが育たないうちは、なかなか安定したメンタルは築きづらいという。しかし、アスリートはトップクラスに近づくほど、内なるものを育てている余裕がなくなってしまう。

「アスリートの場合は、外的な評価をされる機会が多く、それが直接自己肯定感に影響するケースが少なくありません。外的評価とは、たとえば順位だったりメダルの数だったり、どのようにメディアに取り上げられているかとか、どれだけファンがいるかとか。そういった外的な評価に常にさらされているので、自分の中で何が重要なのかや、自分の中でどんな人になりたいのかというのを、落ち着いて考えて育てる機会を与えられないことが多いんですよね。
自己肯定感とか自尊心を育てるためには、いろいろな経験をしたり、いろいろな価値観の人と会ったり、簡単に言うと視野を広げることが大切なんです。人間は育っていく中で、さまざまな成功と失敗を繰り返しながら、自分にとって大事なものはなんだろうと考え、自分にとってここが大切なんだなっていうことに気付いていくものなんです。トップアスリートは成功と失敗を繰り返し、他の人は経験できないような視点を育てることも確かですが、若いときから常に練習をしたり、遠征にいったりして、普通に学校生活を送ることも難しく、すごく狭い世界の中で生きているケースが多いので、その狭い世界の中の価値観に支配されてしまい、競技以外の価値観や考え方を体験する機会が少ないのも事実です」(内田氏)

さらに国際大会などに出場するレベルになると、コーチやマネージャー、スポンサーといった自分をサポートしてくれる大人を意識せざるを得ない。なぜなら、彼らの給与や名誉などが、そのアスリートの成果にかかっているからだ。そのため、自分自身の幸せのためだけに競技を続けることは難しくなる。周囲の大人も選手が活躍すればするほど利益や名誉が与えられるため、選手の幸せを第一に考えることが難しくなってくることもある。しかも、そうした大人がアスリートに対して絶対的なパワーを持っていることが多いため、選手は自分の意志を表明することが難しくなり精神的に追い込まれるケースもよくあります。若いアスリートの置かれるこうした環境は、メンタルが不健康なほうに傾く十分なリスクになると、内田氏は懸念している。

メンタルの不調を予防するために。アメリカでは大学生の半分以上がカウンセリングを活用

ケガをして手当をしないうちに行動すると、その部分をかばってまたケガをすることはよくある。また、捻挫などをして完治しないうちに無理をすると、同じ場所をまた捻挫してクセになるということも覚えがないだろうか? メンタルの不調もそれと同じでケアは早ければ早いほどいいのだそうだ。

「目が悪い人は眼鏡をかけます。眼鏡をかけている人に、我慢しろとか、意志が弱いなんて、誰も言いませんよね。必要な時に、必要な医療や必要な処置を受けるのは当たり前のこと。メンタルの不調もそれと同じです」

さらに内田氏が手当よりももっと重要視してほしいというのが、予防だ。

「みんな運動をするときにケガをしないようにストレッチをしますよね。それと同じように自覚症状がなくても、カウンセリングを受けることはメンタル疾患の予防に繋がります。日本ではメンタルカウンセラーに相談することに、まだまだネガティブなイメージがあるようですが、アメリカでは大学生の半分以上はカウンセリングを受けています。身体的なトレーニングをする際、今はスポーツジムでも専属のトレーナーをつけたりしますし、怪我をした場合にはリハビリ技師さんの助けを借りることもありますよね。それと同じ感覚で、自分の精神的健康のためにメンタルカウンセラーをつけると考えたらいいんじゃないでしょうか。
メンタルカウンセリングを受けることが「弱い」わけではありません。むしろ強くなるためのトレーニング、ダメージをできるだけ防ぐための予防という観点で生活の中にメンタルヘルスに向き合うことが、日本でも普通になってくれるといいと思います」

子どもアスリートのメンタルヘルスを守るには?

オリンピックやパラリンピックといった国際大会は子どもへの影響も大きい。素晴らしいパフォーマンスを見て、アスリートに憧れる子どもも少なくない。一方で先ほど紹介したように、子どものうちからスポーツ漬けになるにはリスクも伴う。子どもアスリートのメンタルヘルスを守るにはどうしたらいいのだろうか?

「さきほど、外的評価にさらされることで、自尊心や自己肯定感といった内なるものが育ちづらいリスクがあるとお話ししました。そうすると、『じゃあ、外的評価を取り除けばいいんじゃないか』という極端な結論にたどり着いてしまっている例がたくさん見受けられます。順位付けはよくないからといって運動会でみんなにメダルをあげるとか。勝ち負けにこだわるのは良くないから運動会やスポーツの大会そのものをやめようとか。しかし、勝ちを目指すのはスポーツの中で自然な感情なので、それを全くなくすのは違うと思うんです。
私が言いたいのは、『勝ち負けだけで自分を評価する軸しかない場合はリスクがあるよ』ということ。外的な評価を全くなくしたからといって、内なるものが作られるわけではないんです。内的評価を育てるためには、自分がどういう人になりたいのか、自分がどういったものに幸せを感じるのか、何に価値を置くのかというのは、視野を広げ経験を積んでいくことが大切ですので、子どものアスリートに関わる大人は、自分自身にも、子どもにもそのような経験を積ませてあげる努力が必要でしょう。あるいはセラピーを通して自分と向き合う時間を作る、そういった中で自分なりに考える機会を得て、自分に正直になり、自分の世界と触れ合うことによって、自己評価は上がっていくものだと思うんですね。そこに注力せずに外的評価を取り除いただけでは、むしろ目標もなく、何をやってるのっていう状況になってしまいます。ですから、たとえば運動会や大会をやめてしまうのではなくて、大会のあり方を考え直し、結果の意味を考え直すことが重要です」(内田氏)

試合分析と人格攻撃は全く別物!SNSでの何気ない一言に気をつけて

アスリートのメンタルヘルスを脅かすものとして、近年問題視されているのが、SNSなどでの誹謗中傷。国籍や肌の色、容姿など、パフォーマンスとは全く関係ないことまで持ち出して誹謗する人たちが沢山いることは悲しいことだ。

「スポーツを観戦して、あのパスは良くなかったとか、あの選手はあの位置にいるべきだったとか、試合を分析して発言するのはいいんです。でも、それが人格攻撃に繋がるとか、容姿に関することなどを混同して発言する人がたくさんいて、アスリートはそれを言われても当然という悪い風潮ができてしまっています。アナライズ、つまり分析するのと、人格や容姿を攻撃することは全く違うことです。ファンも報道するメディアも、言っていいことか悪いことかくらい、考えてから発言してほしいと思います」

こうした悲しい事案がなくなるためには、スポーツを観戦する側が優しさを持って観ることが大切だと内田氏。スポーツ観戦をして高揚した気持ちのまま、何気ない気持ちでSNSに書いた一言。本人は気軽に書いたつもりでも、場合によっては選手の命をも奪いかねないということを私たちは決して忘れてはいけない。

残念なことに、2022年に入ってからもアスリートに対するSNS上での誹謗中傷は後を絶たず、法的手続きをとるといったことが日本でも起きている。トップアスリートの中には若くてもろい人も多く、メンタルを追い込まれやすい環境にいることを知り、彼らにどんな言葉を投げかけるかよく考えることが大切だ。アスリートが十分に自分と向き合い、素晴らしいプレーができる環境をつくっていくという点では、コーチやスタッフだけでなく、その家族、ファンも当事者だといえる。よりスポーツを豊かなものにしていくために、アスリートのメンタルヘルスを今一度意識したい。

PROFILE 内田舞
小児精神科医、ハーバード大学医学部助教授、マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長、3児の母。2007年北海道大学医学部卒、2011年イエール大学精神科研修修了、2013年ハーバード大学・マサチューセッツ総合病院小児精神科研修修了。日本の医学部在学中に、米国医師国家試験に合格・研修医として採用され、日本の医学部卒業者として史上最年少の米国臨床医となった。子どもの心や脳の科学、また一般の科学リテラシー向上に向けて、三男を妊娠中に新型コロナワクチンを接種した体験などを発信し、日本でも話題となった。

text by Kaori Hamanaka (Parasapo Lab)
photo by Shutterstock, Getty Images Sports

『メンタルが不安定な若いアスリートのために、私たちができることは?精神科医がアドバイス』