引退後、アスリートは何を目指す? Bリーガー伊藤良太氏が気鋭の福祉ベンチャー企業の人事へキャリアチェンジした理由
現役を引退したアスリートは、解説者やタレント、指導者など、スポーツ関連の職または企業に従事する……。そんなイメージを抱いている人も多いだろう。しかし現在、元アスリートたちが活躍する舞台は多岐に渡る。Bリーガー伊藤良太氏も、知的障がいのある作家のアートを用いたプロジェクト事業やコラボレーション事業で注目を浴びている福祉業界のベンチャー企業「ヘラルボニー」の人事担当という、非常にユニークなセカンドキャリアをスタートさせた一人だ。人生の半ばでスポーツ選手としての活動を終えるアスリートは、その後、何を目指すのか? 今回は、異色のセカンドキャリアを選んだ伊藤氏に、その真意をインタビューした。
人生の目標を叶えるため、プロバスケットボール選手からスタートアップの人事担当に転身
――まず、今年6月にプロバスケットボール選手を引退され、セカンドキャリアがスタートしたということでよろしいでしょうか。
そうなんですけど、セカンドキャリアと言っていいのか……。僕はプロ選手になる前に社会人経験があるんですよ。東京海上日動火災保険株式会社に就職して、3年間、東京で法人営業を担当しながら実業団でバスケットボールをやっていました。岐阜県に転勤したときに岐阜スゥープスのトライアウトを受けて、日中は東京海上で営業、夜はプロチームのアマチュア選手として練習、土日は試合というサイクルで生活をしていました。
――どのタイミングでプロ選手になったのですか?
岩手ビッグブルズに移籍するタイミングで会社を退職してプロ選手になりました。その後3年間、キャプテンとしてキャリアを重ね、今年7月1日から株式会社ヘラルボニーの人事担当としてジョインをしています。
――Bリーガーから福祉企業に、しかも人事担当への転身はかなり異色だと思うのですが、2つの職業に共通点はあるのでしょうか?
人事担当として、誰もが力を最大限に発揮できるようなチームビルディングを行うという点では、これまでの経験が活かせると思っています。ヘラルボニーの仲間たちって、ヘラルボニーのビジョンに共鳴しただけじゃなくて、へラルボニーを通じて社会を変えたいという沸々とした思いを持っている人が多くて、本当に個性豊かなんですよ(笑)。作家だけでなく、社内の人間も異彩を放つ会社だと感じています。
――へラルボニーに入社する前から福祉業界に興味があったのでしょうか。
それがまったくなくて……。単純に僕の目指すものがヘラルボニーにあっただけなんです。入社後、福祉施設に行って実際に作家さんとお会いしたりしても、単純に「かっこいいな」とか「すごいな」と感じるばかり。作家の方々に対しては、アーティストとしてのリスペクトしかないです。僕も、感覚で捉えるところがあって合理的じゃないんですよね(笑)。
――福祉や障がいに対する先入観がない状態で入社されたんですね。
そうかもしれないですね。実際に働いてみたら、社会や言葉が勝手に境界を作っているだけだと感じました。もしかしたら、障がいの有無で区別しているのは人間くらいなんじゃないかなって。
誰もが、先天的な環境に左右されずに挑戦できる社会をつくりたい
――ヘラルボニーに伊藤さんの目指すものがあったというお話ですが、伊藤さんの目指すものとは何ですか?
機会格差のない社会です。アマチュア選手の頃から、誰もが公平に挑戦できる社会をつくるために自分も何かアクションを起こさなければいけないという使命感に駆られていて……。僕がアマチュアからプロに転向した理由のひとつは、より影響力があるプロ選手の方が使命を果たせると思ったからなんです。そんな時にヘラルボニーと出会ったんですよ。
――岩手ビッグブルズは、2021年に岩手の沿岸地域で開催された東日本大震災復興祈念試合の特別ユニフォームをヘラルボニーとコラボしていましたよね。それがヘラルボニーとの出会いですか?
その少し前ですね。ちょうど新型コロナウイルスの感染が拡大していた時期で、SNSを眺めていたらタイムラインにすごくかっこいいマスクの写真が表示されて、目が釘付けになったんです。それがヘラルボニーのアートマスクだったんですけど、「ヘラルボニー?何それ?」という感じで(笑)。調べてみると岩手の企業だったのですごく運命的なものを感じて、友だちに「こんなかっこいいマスクがあるんだけど、へラルボニーって知っている?」と話したら、松田文登副社長とお会いできることになって。
――たまたま目にした一枚の写真が、コラボユニフォームや転職のきっかけになったということですか?
そうなりますね(笑)。文登さんと初めてお会いしたとき、「知的障がいのある人が尊重される社会を実現したい」とおっしゃっていて、すごく共鳴したんですよ。僕が目指す“誰でも挑戦しやすい社会”は、子どもたちだけでなく、障がいのある方やご高齢の方、LGBTQの方など、あらゆる人の“個性が尊重される社会”と密に繋がっているのではないかと感じていたところだったので。
――松田文登氏との出会いによって、アマチュア選手時代から抱いていた使命感がより強くなった、と。
そうですね。そのままスポーツ選手を続けるという選択肢もあったんですけど、軸足をヘラルボニーに置いて本気でヘラルボニーのビジョンに挑戦することが自分自身の夢の実現にも繋がると感じたので、引退を決断しました。
これからの日本のプロスポーツは、社会を変える可能性を秘めている
――誰でも挑戦できる社会にしたいと思うようになるきっかけのようなものがあったのでしょうか?
実は、僕が社会人になったタイミングでBリーグが発足して、「プロの道もあったのに就職を選択したことは間違ってなかったか」、「自分のキャリアや生き方はこれでいいのか」と2年くらい悶々としていたんですよ。小学校から依頼が来て講演に行ったときも、子どもたちを前にしたら、こんな自分の話でいいのかとモヤモヤして……。でも、その帰りにたまたま目にしたネット記事が人生のキーポイントになったんです。それは都心部と地方の子どもの機会格差に関する記事だったんですけど、先天的な環境で挑戦する機会の少ない子どもがいると知って、「俺は何をやっているんだろう」と。自分のことしか考えていなかったことに虚しさと情けなさを感じる一方で、使命感に駆られた瞬間でしたね。それで、自分の武器であるバスケットボールを活かして子どもたちにきっかけを与えられる生き方をしなければいけない、と本気で思いました。
――病気や障がいのある子どもを試合に招いたり、チャリティーイベントを開催したり、スポーツ選手が地域や社会のために活動することがありますが、プロスポーツと福祉の関係について伊藤さんはどう感じていますか?
僕が岩手ビッグブルズ時代にヘラルボニーとコラボユニフォームをつくったのも、皆さんにヘラルボニーの存在や目的を知ってほしいという想いがあったから。スポーツを通じたアプローチで社会に貢献したり機会を提供したりできるという意味で、プロスポーツは可能性に満ち溢れていると思います。ただ、何かアクションを起こしたくても、たくさんのファンの期待を背負っている、人生をかけてスポーツに取り組んでいる、と思ったら目の前の競技に集中しないといけないという気持ちが勝ると思うんですよね。海外のアスリートはシーズン中も当たり前のように活動を行なっているので、不可能なことではないはずなんですけど……。
――たしかに、日本には競技以外の活動がネガティブに受け取られる傾向があるような気がします。
そうなんですよね。「試合だけに集中しろ」とか「スポーツ選手なら社会貢献するべき」とかいろいろ言ってくる人がいるけど、どうするかは選手自身が決めることで、強制されることではないと思っています。
――それもまた“誰でも挑戦できる社会”のひとつですね。
だから、選択権は選手自身にあると示した上で、選手や社会に向けて、アスリートがアクションを起こすことのかっこよさや意義を理解してもらえるようなムーブメントを起こしたいと本気で思っています。僕の今の立場だからこそできるアプローチで、1人でも2人でも巻き込んでいって、スポーツと福祉の関係を豊かにしていけたら嬉しいですね。
新しいステージに進んだ伊藤さんが見据える未来とは?
――スポーツ選手から企業の人事担当に転向して生活が一変したと思うのですが、毎日どんな気持ちですか?
正直に答えると、最高に楽しいです。職業が変わっただけで自分が目指しているところは変わってないので、毎日熱量を込めて生きられています。ただ、もう、1人自分が欲しいですね(笑)。実務がまだまだ追いついていないのでもっと時間が欲しいと思う部分もあるし、できたらバスケを楽しむ時間も欲しい。とりあえず、今はヘラルボニーの一員として仕事に全力投球したいと思っています。
――へラルボニーのメンバーとして、今後の目標はありますか?
個人的には、子どもたちが障がいのある人たちと接点を持てるような機会をもっとつくりたいと思っています。現在も建設現場の仮囲いに作品を転用する「全日本仮囲いアートミュージアム」のような事業を行なっていますが、幼い時から多様性を実感できる場を持つことで、10年後、20年後に彼らが時代のリーダーとなって、より良い社会を構築していってくれるのではないかと期待しています。自分とは違う生き方をしている人に「素敵だね」と言い合えるような社会になってもっともっと生きやすくなってほしいですね。
あとは、先ほどのスポーツと福祉の関係を深めることも僕の使命のひとつだと思うので、多くの方にお力添えをいただけたら嬉しいです。
大学卒業後、Bリーグの発足を目の当たりにして自らの選択を悔いたという伊藤さんも、人生の目的を見つけてからは、その実現に向けて一歩ずつ着実にステージを登り続けている。おそらく、伊藤さんにとって現役引退はセカンドキャリアのスタート地点ではなく、人生の通過地点にすぎないのだろう。誰でも挑戦できる公平な社会をつくるためにヘラルボニーの一員となった伊藤さんの今後に期待が高まる。
text by Uiko Kurihara(Parasapo Lab)
photo by ヘラルボニー