「もうひとりの世界王者」車いすテニス眞田卓

「もうひとりの世界王者」車いすテニス眞田卓
2019.02.22.FRI 公開

車いすテニスといえば、“国枝慎吾”が代名詞となっているが、日本にはもうひとり、国枝とともに世界の頂点に上った選手がいる。世界ランキング9位の眞田卓だ。当初は、趣味として車いすテニスを楽しみ、国枝を偉大なプレーヤーとして眺めていた位置から、国枝と並んで世界と戦うまでになった眞田の軌跡を振り返る。

パラリンピックを目指すつもりはなかった

事故後、わずか2ヵ月で車いすテニスを始めた眞田卓

現在、国枝と肩を並べ、世界のトップレベルで戦っている眞田だが、年齢は33歳。国枝のひとつ年下で決して若手というわけではない。19歳のときにバイク事故で右足を切断し、その後わずか2ヵ月後に車いすテニスを始めた眞田の中には、当時パラリンピックを目指すという選択肢はなかった。


眞田卓(以下、眞田) 学生時代にソフトテニス、バドミントンを経験していたこともあり、車いすテニスは誘われてすぐにやろうかなと思いました。

当時は、障がい者になりたてで、これからどうやって生きていくか右も左も分からない。だから、障がい者のコミュニティに入りたいっていう気持ちがあったので、リハビリの担当だった理学療法士に、何かスポーツをやりたいと言ったら、車いすバスケットボールを見学する機会を作ってくれました。そのときに、現在、クァードクラスでプレーしている菅野浩二選手が声を掛けてくれたんです。

「車いすバスケ興味あるの?」と言われて、バスケットボールは苦手だったけれど、ソフトテニスをやっていたことを話したら、「車いすテニス、やってみない?」と誘われました。

菅野選手とその話をしてから、なんと3日後には病室にテニス車(競技用車いす)が届いたんですよ。当時の車いすテニス界は、若くてテニス経験のある人をすごく求めていて、その中ですごく注目される選手になるだろうと思われたようなんです。

それで、数日後には菅野選手と埼玉県の障害者交流センターにいました。まだ手術したばかりで切断面は血だらけですし、スポーツなんてやってはいけない状態だったんですけど、でも、主治医は“心のリハビリテーション”にもなるから、傷口が開かないように、無理のない範囲でならやってもいいと言ってくれました。


中学時代、ソフトテニスで県大会ベスト4などの成績を残していたため、周囲はパラリンピックを目指してもらいたいと期待した。だが、眞田は、周囲の声に踊らされることなく、堅実な道を選んだ。


眞田 テニスはもちろん楽しかったんですけど、それ以上にコミュニティの場にいることが楽しかったです。障がいのある自分が社会の中では人の目が気になったり、まだ恥ずかしいという気持ちがあったりしたので、車いすの人や障がいのある人といると、すごく楽でいられたんです。最初の2〜3年は、そういうコミュニティに居心地のよさを感じていました。なので、テニスを始めて3ヵ月後くらいに、パラリンピックを目指さないかと声をかけられましたけど、当時は全くその気はなかったですね。

そのころは、スポーツ用品店のアルバイトを始めたばかりで、金銭的な面でも世界を転戦するなんて無理でしたし、仕事も面白くてバイトから正社員に、そして新店舗の店長を任されるようになるなど、時間的にも難しかったです。仕事に就けて安定した収入が得られて、車いすテニス仲間の輪に入れて、年間3大会ほど試合にも出られる。それで満足していました。

26歳から世界を転戦し始め、世界トップ10へ


パラリンピックを目指したのは、車いすテニスを始めて約6年が経った26歳のときだった。国枝が2008年の北京パラリンピックで金メダルを獲得し、翌年の4月にプロ宣言をする。そのことをきっかけに、眞田の周りでも車いすテニスの認知度が上がっていったのだ。


眞田 23歳で自動車販売店に転職して、仕事を覚えるために1年ほど、テニスから離れていました。国枝選手のプロ宣言の影響もあり、会社の方に「またテニスやってみたら?」と言われるようになり、社長からも「2012年のロンドンパラリンピック、頑張れば出られるんでしょ?」と背中を押してもらい、パラリンピック出場までの企画書のようなものを書くことになりました。それが2010年の12月に稟議が通って、2011年からパラリンピック出場を目指すためにツアーを回るようになったというわけです。

世界各地の大会の回り方もわからない、どの大会がどんなレベルなのかもわからない、ホテルの取り方もわからない……。そんな中、相談した国枝選手が「一緒についてくれば?」と言ってくれました。 国枝選手や齋田悟司選手、藤本佳伸選手にくっついて海外のツアーを回るうちに、対戦相手の運がよかったこともあり、ランキングも上がっていって、1年半後には世界ランキング10位以内に入りました。


そして、見事出場権を獲得したロンドンパラリンピックでは、シングルス・ベスト16、ダブルス・ベスト8という成績を残す。2016年のリオパラリンピックでは、ダブルスで国枝のペアと銅メダルをかけて戦い、眞田のペアは敗れている。そして、2年後の2018年、メダルを獲った国枝とメダルを逃した眞田のふたりが、東京パラリンピックでのダブルスのメダルを目指してスタートを切った。


眞田 2018年の11月、ユニクロ車いすテニスダブルスマスターズに国枝選手と出場することができました。インドネシア2018アジアパラ競技大会でも国枝選手とダブルスを組んで金メダルを獲得しましたが、あまり練習もできていませんでしたし、ふたりの“個の力”で勝てる相手だったので、個人プレーで試合をしている感覚でした。

ダブルスマスターズでは、世界1位のフランスペアや世界の強豪ペアを相手に、どうやって力を合わせれば勝てるのかという、前向きな話し合いができました。今回のダブルスマスターズでは、『ボールもコートも東京パラリンピックの会場と条件が全然違うから今、この作戦練っても使えるかどうかはわからないけどね』というような話もしました。やはり見据えてる先は東京パラリンピックなんですね。ダブルスマスターズの結果はベスト4で、それほどいい結果ではありませんでしたが、東京を見据えたときのふたりの関係性を考えたときに、このタイミングでスタートが切れたのはよかったと思います。東京に向けてやっていこう、としっかりと話し合えたので。

世界ナンバーワンの称号


2018年6月。ダブルスマスターズに先立って行われた国別対抗戦「ワールドチームカップ」で、日本は2007年以来11年ぶりに3度目の優勝を果たした。国枝と共にシングルで全勝し、日本を優勝に導いたのが眞田だった。ワールドチームカップは、シングルスふたつ、ダブルスひとつの、計3試合で争われる。予選3試合、決勝トーナメント2試合、その全対戦で国枝と眞田はシングルスで勝利し、日本の実力を知らしめた。


眞田 2018年は、ワールドチームカップでタイトルを獲れたというのはすごく嬉しかったです。リオパラリンピックの金メダリスト、イギリスのゴードン・リードに勝てましたし、「世界ナンバー1」という肩書きが付いたことも自信になりますね。

振り返ると、緊張感はありましたけど、プレッシャーはありませんでした。国枝選手が(2018年)1月の全豪で優勝し、王者に戻っていたし、自分もケガもなく、不安もなかった。すごく安心してプレーできたのだと思います。

ワールドチームカップの後は、海外のトッププレーヤーにダブルスを一緒に組まないかと声をかけてもらうことも多くなりました。全勝で優勝したことで世界でも認められたという実感はありますね。

東京パラリンピックでの目標は、メダルを獲得したいというところですが、メダルに行き着くためにはさらにランキングを上げて、グランドスラムやシングルスマスターズに出場できるようにしていかなくてはなりません。それが大きな課題になってくると思います。

2019年はシングルスマスターズに出て、決勝トーナメントに行くっていうのが目標です。ダブルスマスターズに関しては優勝を目指します!


本人も「飛躍の年になった」と感じた2018年。来たる東京パラリンピックの単複メダル獲得を目指し、これまでのように目の前の目標をクリアしていこうと、眞田は真っ直ぐに前を見据えていた。


(※世界ランキングは2019年1月14日付け)

text by Tomoko Sakai
photo by Masashi Yamada

『「もうひとりの世界王者」車いすテニス眞田卓』