パラアスリートのコンディショニングを支えるキーマン・スポーツ栄養士 内野美恵さん

パラアスリートのコンディショニングを支えるキーマン
2019.07.11.THU 公開

みなさんは「スポーツ栄養士」という職業をご存知ですか? 文字通り、スポーツ選手の栄養管理を専門に行う栄養士で、アスリートのパフォーマンスを食事や栄養面から支えるのが仕事です。今や栄養の専門家はスポーツの現場でも重要視されていますが、かつてパラアスリートの栄養指導はほとんど取り組む人がいない領域でした。そこで今回はスポーツ栄養士の黎明期からパラリンピックの現場に携り、研究者として大学で教鞭もとる内野美恵さんにお話をうかがいました。

<パラアスリートを支える女性たち Vol.07>
うちの・みえ(52歳)
公認スポーツ栄養士、東京家政大学ヒューマンライフ支援センター准教授
日本パラリンピック委員会JPC医科学情報サポートスタッフ、博士(学術)、管理栄養士
※公認スポーツ栄養士…公益社団法日本栄養士会および公益財団法人日本スポーツ協会の共同認定による資格。


パラアスリートの栄養サポートに携って20年の内野さん。大学では常勤の准教授として「スポーツ栄養学」や「食育」などを教えています。取材にうかがった日は、元車いす陸上競技選手の千葉祗暉(まさあき)さんをゲストスピーカーに招いた特別講義。パラアスリートにとって栄養指導がなぜ、どのように大切なのか。選手サイドの生の声を聞くことでスポーツ栄養士を目指す学生により深い学びを得てもらおうと、内野さんのキャリアや人脈を活かしたカリキュラムが展開されます。


特別講義は年1回。現役時代の千葉さん(右)と内野さん(左)が同志のように試行錯誤してきた、パラアスリートの栄養サポートの黎明期が語られます。

きっかけはパラアスリートが紹介されていた一冊の雑誌

内野さんがパラアスリートと出会ったのは1995年。なにげなく立ち寄ったコンビニの本棚で『アクティブ・ジャパン』という日本初のパラアスリート専門誌を手にとったのがきっかけでした。そこには車いす陸上選手たちのグラビアがあり、レース中の疾走感あるビジュアルに衝撃を受けて車いす陸上に関心をもったといいます。

「まず、障がい者のイメージをくつ返すようなカッコいいアスリートの世界に純粋に惹かれました。当時は管理栄養士として自転車ロードレーサーの栄養サポートをしていたのですが、巻末にあった“車いす陸上チームのボランティア募集”の告知を見て、もしかしたら自分の経験が役立つかもしれないと思い、 “管理栄養士のボランティアでも大丈夫ですか?”と問い合わせてみたんです。いざ会ってみたら、困難を超えて競技に打ち込む彼らの生きざまみたいなものにも引きこまれて、毎週末サポートすることを決めました」(内野さん)

そのチームのリーダーが、当時車いす陸上の選手だった千葉さんでした。ところが24年前はパラアスリートの栄養サポートについての書籍や参考文献はほとんどなく、いざ指導しようとすると、“健常者とはまったく異なる身体状況のパラアスリートの現実”に直面。そこから、内野さんのパラアスリートを支えるスポーツ栄養士としての道なき道を切り開く日々が始まりました。

汗がかけない体を、氷を口に含ませ物理的に冷やしてみる

「いざパラアスリートの栄養支援を始めてみたら役立つ知識はほとんどなく、挫折の連続でした(苦笑)」(内野さん)

「当時はまさに手探りの日々でした。そもそも栄養指導は、まずその人の消費エネルギー量を把握して、それに対して何をどのくらい摂ればいいのかを設定していくスキルなんです。たとえば健常者の場合は、厚生労働省が定める栄養摂取基準量に基づいて栄養指導を展開します。ところが障がい者の場合は、栄養摂取の基準がない。障がいや損傷の部位や程度による身体機能の変化が、消費エネルギー量や栄養の吸収変化にどのように影響するのかなど、解明されていない要素が多いからです。

また、練習中に「汗をかいただろうから水分補給して」と促したら「俺は汗はかかないよ」と言われて、そのことにも驚きました。脊髄損傷の選手は自律神経障がいがあるので汗をかけないんですね。さらに脊髄損傷の影響で低血糖がひんぱんに起こったり、血圧が安定しないことが日常的にあるという事実を知ったときには、これまで学んだ知識や常識が通用しない世界なんだと、改めて衝撃を受けました。

そこで個別の身体状況を把握しようと、選手ひとりひとりに寄り添いながらヒアリングを行う個人面談をスタートしました。体の形態を観察し、食事指導を行い、体組成などのあらゆるデータを地道に計測しました。でも、一度試合が始まったら体温が上昇しても自分で汗をかいて冷やすことができず、練習中とは違ってあおいでくれる人も誰もいません。そこで、氷を用意しておいて口に含むことで、物理的に身体を冷やす方法を提案しました。口の中を冷やすと体全体が冷えるからです」(内野さん)

千葉さんも当時を振り返り、授業でこんなことを語っています。

“健常者と、まひをもつ人の体はまったく違います。血液を運ぶポンプが弱いから、血流が悪くなる。体は常にむくみがちです。たとえばレース用の車いすにむくんだ体を入れて落ち着かせるまで、1時間ほどかかるのです。内野先生と何を食べたらどうなるのか、トライ&エラーをくり返して1年たって答えが出ました。なんにでも効く魔法の食べ物はないけれど、食べ物で自分の体を強くすることはできる。それまでケガや風邪をひいては練習を休んでいたのが、栄養サポートを受けることでケガが治りやすく、風邪をひきにくくなってきました。結果、年間通して同じペースで練習ができるようになり、食事指導を受けたことで成績が上がる選手が徐々に増えていったのです”(特別講座の千葉さんの談話より)

日本で初めて、パラリンピック代表選手に栄養講座を行う

「脊随損傷者のエネルギー消費量についての文献もほとんどない中、苦労しながらサポートしたことが思い出されます」(内野さん)

選手たちと二人三脚の地道な試行錯誤を繰り返しながらサポートに取り組んでいた内野さんに、転機が訪れ始めます。1996年のアトランタパラリンピックの陸上競技日本代表の直前合宿で、初めてオフィシャルな栄養講座を依頼されたのです。

「直前合宿に帯同したのですが、パラリンピックの陸上競技代表選手に向けた栄養講座は、おそらくこれが日本初だったと思います。また、コツコツと栄養サポートを継続してきた千葉選手は2年後の世界パラ陸上競技選手権大会で見事銀メダルを獲得。千葉さんと出会ったのは、彼がバルセロナパラリンピックで思うような結果が出せず、次のアトランタでは必ず成果を出したいと考えていたタイミングでした。それだけに素晴らしい成果が自分ごとのようにうれしかったのを覚えています。

大きな分岐点は、1998年の長野冬季パラリンピックでのアイススレッジスピードレースチームのサポートです。栄養サポートの必要性が認められて、大会前に約2年かけて選手たちの栄養サポートを実践しました。最終的にチームとして33個のメダルを獲得。思わぬメダルラッシュに私たちスタッフも沸きました。長野パラリンピックは初めてパラのスター選手が誕生した大会でもあり、いわゆる“日本のパラスポーツ元年”と呼ばれています。それまでほとんど報道されることもなかったパラリンピック競技のいくつかが、テレビで放映されるようになったのもこのときからです」(内野さん)

内野さんが日本代表選手の栄養サポートで活用していたポータブルの体組成計。
「まだスポーツ栄養という言葉自体が一般的ではなく、自分で教科書を作成。近年、依頼されて当時のことを『リハビリテーション』という専門誌に寄稿しました」(内野さん)

(後編に続く:https://www.parasapo.tokyo/topics/19087

text by Mayumi Tanihata
photo by Yuki Maita(NOSTY)

『パラアスリートのコンディショニングを支えるキーマン・スポーツ栄養士 内野美恵さん』