働き方も人生も次のステージにシフトする時期・スポーツ栄養士 内野美恵さん

2019.07.12.FRI 公開

東京2020パラリンピックのチケット販売が今夏に迫り、パラスポーツ関連の話題に注目が集まっています。かつてパラスポーツが“障がい者スポーツ”と呼ばれていた時代からパラアスリートの栄養支援に力を注いできた内野美恵さん。そのライフヒストリーから東京2020大会の向こうに見据えるものまで、お聞きしました。

《前編はこちら(https://www.parasapo.tokyo/topics/19084)から》

<パラアスリートを支える女性たち Vol.07>
うちの・みえ(52歳)
公認スポーツ栄養士、東京家政大学ヒューマンライフ支援センター准教授
日本パラリンピック委員会JPC医科学情報サポートスタッフ、博士(学術)、管理栄養士
※公認スポーツ栄養士…公益社団法日本栄養士会および公益財団法人日本スポーツ協会の共同認定による資格。

ずっと働けるキャリアを築けるようにと、管理栄養士の資格を取得

大学で栄養学を教えるかたわら、スポーツ栄養士としてパラアスリートを支えてきた内野さん。24年前、内野さんが初めて車いす陸上選手の栄養サポートに携り始めた当時は女性の働き方の選択肢も少なく、障がい者スポーツも“リハビリテーションの延長”と定義されていました。

━━スポーツ科学の発展とともに、今やアスリートが医療や食など各分野の専門家を集めて自分のチームをつくり、戦略的なサポートを受けることはポピュラーになりつつあります。内野さんはいつ頃からスポーツ栄養士を目指されたのですか?

学生時代から、“何か資格を活かした仕事をしたい”とは思っていました。女性も経済力をもつことが大切だと言われ始めた頃で、当時の私は“ずっと働き続けるとしたら結婚や出産はどうするんだろう?”と疑問に思っていたんです。まだ働き方のロールモデルなどない時代でした。それで、とにかく細く長く働ける道を行こう、そのためには大学へ行って専門性を身につけようと考えたのです。

スポーツと栄養については、中高と体育会系のテニス部に所属した経験が影響しています。たとえ炎天下でも“練習中は決して水を飲むな”という、今思えば前時代的な指導に素朴な疑問を感じていました。また50代まで第一線で活躍したテニスのマルチナ・ナブラチロワ選手の、「私がここまで長く活躍できたのは、食事をしっかりマネジメントしてもらったことがベースにあります」という言葉も強く記憶に残っていました。

そこで栄養士を目指そうと、大学では栄養学を専攻しました。これからは学位が必要だと言われて大学院にも進学して、指導教授の専門である魚油の研究に邁進していたんです。ところが研究半ばで教授が急逝。指導してくれる方がいなくなって、連日深夜まで研究室にこもっていた生活が一変しました。

ぽっかりと時間が空いてしまい、先ゆきもみえなくなりました。そこでこの機会に自分の視野を広げようと、スポーツ栄養学のシンポジウムに行ってみたんです。そのとき“この分野は今後絶対必要だし、面白い”と、進むべき方向が見えた気がしました。プライベートでは中学時代の同級生だった夫と26歳で入籍しました。修了後はフリーランスの管理栄養士として企業で研修を実施したり、専門学校や大学で非常勤講師として勤務をしました。

大学院時代、車いす陸上競技選手の栄養サポートを始めた頃の内野さん。※写真はご本人提供

成果が認められ、栄養サポートコーチとしてパラリンピックに5回帯同

━━ボランティアとしてパラアスリートの栄養指導を始めて20年、パラリンピックには5回帯同されています。特に思い出深い出来事というと、何が思いだされますか?

陸上競技日本代表チームに栄養コーチとして帯同した、2000年のシドニーパラリンピックでしょうか。夏季パラリンピックの日本代表選手団に栄養士が帯同するのは初めてで、周囲からは“なぜ栄養士がいるんだ?”“女性に何ができる”と、否定めいた声も聞こえてきました。

立位のブラインド(弱視)のベテラン選手からは「試合前の食事調整は自分がいちばんわかっている。今さら口出ししないでほしい」と、面と向かって拒否されました。“自己管理はできている”ということなので、その場ですぐに了承しました。いちいち心が折れていては仕事になりません。そもそも女性比率が少ない世界でしたので、どこに行っても反発や好奇の目で見られることには慣れっこでした。

栄養サポートを了承してくれた選手に対しては、とにかく個人個人のコンディションを丁寧に把握して、しっかり寄り添っていこうと心を決めました。朝は選手全員の部屋を尋ねて体調や困りごとがないかを確認し、昼は食堂で食事内容の相談を受け、午後は部屋の片付けを手伝ったりマッサージをしながら選手に栄養の話をしました。

そんな3週間の帯同を終えて帰国してしばらく経った頃、あの選手から自宅に一枚のはがきが届いたんです。そこには私の仕事ぶりから受けた気づきや感謝の言葉がありました。現地で彼への声がけは遠慮していたのでびっくりして、読んでしばらくは涙が止まりませんでした。

「はがきは今も宝物。くじけそうなとき、心のよりどころにしています」(内野さん)
「パラリンピックの現場には栄養士としての気づきがたくさんありました。期間中の調査や測定データは、報告書にまとめてスポーツ協会に報告しました」(内野さん)

これからも細く長く、自分のテーマとしてサポートを続けたい

━━多忙を極めた30代後半では、お子さんを2人出産されています。仕事と子育てのバランスはどのようにとっていたのでしょうか。

35歳で長男を出産したとき、これまでと同じような濃密さで育児と大学の仕事と栄養サポートを成り立たせるのはさすがに厳しいと思い、「ごめんなさい。もう続けられません」と申し出ました。仕事として最大限の力を尽くす気概でやっていたので、中途半端に関わるならいっそ辞めたほうが選手にとってもいいのではと考えたのです。

ところが千葉さんに「今までとは違うやり方でもいいんじゃない?」と言ってもらえて、目からウロコが。そうか、これからはライフワークとして考えようとスタンスを改めました。2人目出産後は「お子さんを合宿に連れてきたら?」と提案いただき、本当に子連れで地方合宿に帯同しました。今でいう “柔軟な働き方”を受け入れてもらえたんですね。そのうちに子育ても手を離れて、去年は3回ほど帯同しました。

思えば私がこの仕事を始めた当初はパラアスリートの栄養事情についての情報が何もなく、指導者はもちろん、同じ道を志す栄養士の仲間もいませんでした。しかし約20年が経過して、それまで福祉で語られていた障がい者スポーツは今から5年前、オリンピックと同じ文部科学省スポーツ庁の管轄に変わりました。国立スポーツ科学センターやナショナルトレーニングセンターに、パラアスリートを指導する栄養士が採用される時代がやってきたのです。

私自身も、これからはオブザーバーとして次世代育成に力を入れようと考えています。ですが、パラアスリートの栄養サポートは自分の人生のテーマとして、細く長く携っていきたいのです。東京でのパラリンピックはどのようなポジションで参加できるのか、今はまだわかりません。パラリンピックのもつあたたかな世界観を通じて、人々がお互いを尊重しあうような、やわらかな空気が醸成されることに期待しています。

「座右の銘は“意志あるところに道は開ける”。踏みならされた道を歩くよりも、何もないところから切り開くのが楽しいんです」と内野さん。
「栄養サポートは血液検査、食生活の問診表、栄養調査の資料をもとに行います。食物繊維不足なのにお菓子を食べる量は多いなど、食生活がよく見えるんですよ」(内野さん)

text by Mayumi Tanihata
photo by Yuki Maita(NOSTY)

『働き方も人生も次のステージにシフトする時期・スポーツ栄養士 内野美恵さん』