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レジリエンスなパラリンピアンから学ぶ、逆境を乗り越える力
“パラリンピックの父”ルードウィヒ・グットマン博士が大切にしていたとされるパラリンピックを象徴する言葉がある。
「失われたものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ」
これまで世界中のパラリンピアンが競技を通じてその理念を体現してきた。
コロナ禍で社会に閉塞感が漂う今こそ、胸に刻みたい――レジリエンス(しなやかな適応力)で困難を乗り越え、己の限界を超えようと前に進み続けるパラアスリートの物語とは?
パラリンピック金メダル15個。成田真由美の光と影
パラ水泳界のレジェンドのひとりとして名を馳せるのが、成田真由美だ。パラリンピック5大会に出場し、金15個を含む計20個のメダルを獲得。今も世界で戦える日本屈指の女子選手としてトップシーンを泳ぎ、東京2020パラリンピック出場を目指している。
子どもの頃は水泳が苦手だったという成田。13歳で横断性脊髄炎を発症して車いす生活になった後、23歳で泳ぎ始めて国際舞台の頂点まで上り詰めたというのも驚きだが、その後の競技人生も起伏に富んでいる。
アトランタ、シドニー、アテネと3大会連続で金メダルを胸にした成田だが、2008年の北京大会ではまさかのメダルゼロに終わった。自身のタイムが急激に落ちたとか、多くの強豪が台頭したというわけではない。北京の地で、選手ができるだけ公平に競えるよう障がいの種類や程度でグループ分けする「クラス分け」の判定を受けた結果、これまでの「S4」から、より障がい程度の軽い「S5」への変更を告げられたからだった。例えば、現在の女子50m自由形の世界記録で比べてみると、S4では37秒87、S5では35秒88と、最も短く速い種目にもかかわらず約2秒もタイムが違う。つまり、クラスが一つ軽くなっただけで、太刀打ちできなくなるほど競技レベルが上がるのだ。
成田にとって、その苦しみは計り知れないほどだろう。しかし、水泳日本代表チームのキャプテンという立場もあった。目指していたメダルは厳しい状況になっても、自らの役割を全うするかのように最後まで泳ぎきった。
その後、第一線を離れたが、2015年に7年ぶりに競技に復帰。派遣標準を上回るタイムでリオパラリンピックへの出場権を掴み、本大会では50m自由形5位などの成績を残した。現在49歳だが、厳しいトレーニングを自らに課して記録を更新し続けている。
夏冬パラリンピアン・鹿沼由理恵の“終わらない挑戦”
東京・町田で生まれ育った鹿沼由理恵は、生まれつき目に障がいがあったが、体を動かすのが大好きだった。
パラリンピックには憧れがあった。25歳のとき、雪上のマラソンといわれるクロスカントリースキーを本格的に始めると、国内外でトレーニングを重ね、2010年にバンクーバーパラリンピックに出場。夢を叶えた嬉しさはあったが、表彰台に上れなかった悔しさもあったという。同大会では日本選手団主将を務めていたクロスカントリースキーの新田佳浩が2冠を達成し、センターポールに日の丸を掲げた。そのとき、同じ会場にいて君が代を聞いた鹿沼は「私ももっと上に行きたい」と決意を新たにしたそうだ。
しかし、翌年、ソチパラリンピックを目指して練習に励んでいた最中に転倒。左肩を痛めるケガを負った鹿沼は、メダルを目指せないならば……とスキーでのチャレンジを断念した。
そんな彼女を再び、パラリンピックという目標に向かわせたのは、新たに始めた自転車だった。クロスカントリースキーでライバルだったカナダ選手が自転車でも活躍していると知り、自身も2人乗りタンデム自転車に乗ってみると風を切るスピード感に魅了された。競技歴4年でリオパラリンピックに出場。ロード・タイムトライアルではギアの故障トラブルを乗り越え、見事銀メダルを獲得した。
だが、試練はここから訪れる。自国開催のパラリンピックを前にトライアスロンや陸上競技での挑戦を模索していた鹿沼だったが、実は両腕の神経まひによる痛みに悩まされていた。再起を誓い、手術をしたものの、左腕は感染症を起こし、2018年に左腕前腕部を切断。その後も壊死が止まらず、左腕をさらに短くせざるを得なかった。鹿沼には視覚障がいに加え、片上肢切断という障がいが残り、いずれの競技でもパラリンピックヘの道は険しいものになった。
だが、夏と冬のパラリンピック両大会に出場を果たしたアスリートは勇ましい。多くのパラアスリートが逆境に立ち向かう姿を見てきた鹿沼は、将来的な競技復帰を表明している。
生涯現役! 陸上競技のメダリスト・大井利江が目指す夢舞台
昨年、11月のドバイ2019世界パラ陸上競技選手権に最年長71歳で出場。砲丸投げで東京パラリンピックを目指している大井利江も、2004年に初出場したアテネパラリンピックの円盤投げで銀メダル、続く北京パラリンピックで銅メダルを獲得したパラリンピックメダリストだ。
マグロ遠洋漁業の元漁師。39歳のときに船上での事故で脊髄を損傷し、車いす生活となった。リハビリで始めた水泳で大会に出場すると、日本新記録を樹立する活躍。その後、パラリンピック出場を見据えて陸上競技に転向し、アテネ大会に初出場。円盤投げで障がいのクラスが急遽「F52」から「F53」に変更になったにも関わらず、不屈の精神で銀メダルに輝いた。
北京大会では銅メダルで、ロンドン大会では10位。まだ手にしていない金メダルを目標に競技生活を続けていた大井に、大きな試練が訪れる。2012年のロンドン大会後、F53クラスの円盤投げが種目から除外されることになったのだ。それでも、「パラリンピックは夢舞台だから」と砲丸投げに転向して2016年のリオ大会へ挑戦することを決意。頸椎損傷の大井は手にも障がいがあり、利き手の右手では砲丸を耳の近くまで持ってくることができない。そのため、左投げへの変更も余儀なくされた。
困難を乗り越え、自己ベストを更新し続ける先に自国開催の東京パラリンピックを見据えたのは想像に難くない。大井は挑戦を続け、ついにリオ大会の出場切符も掴んだ。結果は7位だったが、悔しさは次のステップに向かう原動力になった。そして、今なお競技への情熱は絶やさず、73歳で迎える東京パラリンピックに向かって練習を続けている。
ここで紹介した以外にも、困難に立ち向かうアスリートの物語は多くある。今こそ、逆境を乗り越え、波乱万丈の競技人生を送るパラアスリートから学びたい。
text by TEAM A
photo by X-1