【前編】東京パラリンピックで金メダルを。 バドミントン・鈴木亜弥子 世界女王の覚悟

2018.02.26.MON 公開

東京パラリンピックで新たにバドミントンが正式競技として採用された。実施される14種目のうち、もっとも金メダルに近いのは、2017年7月、SU5(上肢機能障がい)クラスで世界ランキング1位に到達した鈴木亜弥子だ。一度は引退したものの、ふたたび頂点を目指す胸の内を聞く。

全日本ジュニア2位。変則フォームも武器に活躍した学生時代


「見てください、この太もも。太いなぁ。わたし、こんなに鍛えてたんですよ」
2004年、埼玉県・越谷南高時代、鈴木亜弥子は全日本ジュニア選手権のダブルスで準優勝した。当時の写真を見ながら、鈴木は懐かしそうに話す。


鈴木亜弥子(以下、鈴木)  実はこのときのこと、よく覚えてないんです。顧問の大高(史夫)先生も決勝まで行くつもりではなかったと思います。毎日、帰り支度をしてホテルを出て、勝ったから予約し直してホテルにまた帰る、そんな繰り返しでした。

よく覚えているのはインターハイですね。高校時代は「みんなで全国に出るぞ!」と頑張っていました。休みなんて全然なく毎日バドミントン。だから高3で出場が決まったときは、本当にうれしかった。 それから個人戦では、県大会で負けています。そんなこともあって全日本ジュニアで勝ち進んだ理由は……うーん、わからないです。


代わってリオデジャネイロオリンピックの銅メダリスト奥原希望も育てた名伯楽・大高氏はこう明かす。「フォームが変則的でうまい選手に見えないんですよ(苦笑)。だから鈴木に球が集まるんですが、レシーブがうまいので相手の予測の逆を突ける選手でしたね」


鈴木  そうかもしれません。私に障がいがあるせいか、実はフォームを直されたことがないんです。障がいは生まれつきで、右腕は肩くらいまでしか上がりません。バドミントンは両親と年子の姉の影響で始めたんですけど、当時から打つタイミングが自分のオリジナルで。対戦相手はまさか障がいのせいとは思わなかったでしょうね。

生まれつき右腕に障がいがある

そんな健常の全国クラスで活躍していた鈴木が、パラバドミントンと出会ったのは大学3年のときだ。


鈴木  全日本ジュニアで2位になったことで進路の選択肢も広がったんですが、関東リーグ3部の東京経済大学へ進学しました。どうして1部に行かなかったのかは、1年生のときからレギュラーになりたかったから。自分が勝ちたいという欲が少ないんだと思います。

パラバドミントンのことを知ったのは大学3年のときですね。養護学校で先生をしている父が「こういう大会があるよ」と言ったんです。出てみたら健常者の大会とレベルが違ってびっくり。だからパラの大会には年に1回出るくらいで、大学時代のメインといえば、リーグ戦です。2部に昇格することもできました。


大学卒業後は会社員に。17時まで仕事をした後、週に3日、体育館に通っていた。2009年には初めて国際大会にも出場。ただこの世界選手権は、自分の楽しみで出場したようなもので、翌年、中国でのアジアパラ競技大会で優勝した後は、いったんラケットを置いた。


鈴木  世界選手権には1週間、有給を取って行ったんです(笑)。日本だとこれくらいのレベルだったから、世界はどれくらいなんだろう、という好奇心でした。それで優勝して、あぁ、これくらいなのかと。翌年のアジアパラでも「加油!(頑張れ)」っていう声援のすごさは印象的でしたが、正直なところ、試合内容はよく覚えてないんです。

アジアパラのあとはバドミントンを辞めました。グレードの高い2つの世界大会で優勝できたから、これからは別のことをしたいなって。それまで本当にバドミントン漬けだったので、職場の人とおしゃべりしたり、旅行したりというごく普通のことがしたかったんです。

2010年に中国で開催されたアジアパラ競技大会で優勝 ©X-1

東京パラリンピックという新たな目標


以降5年間、鈴木はラケットをほとんど握らなかった。乗馬にチャレンジし、オリンピックに出たいと口にしたこともある。しかし、2014年に東京パラリンピックでバドミントンが正式競技入りすることが決まったことで、気持ちはバドミントンに戻っていく。


鈴木 はじめに反応したのは父です。社宅から帰省するたび、「正式競技になったね」とささやくんですよ(苦笑)。父は私に復帰してもらいたかった。でも、私はすぐに決断できませんでした。

なぜなら今回、復帰すると決めたら、おそらく自分の意志とは関係なく2020年までやりきらないといけないから。自分の意志で自由に辞めた2010年とは違う。2020年には33歳になることや、5年間のブランクも迷った要因です。正直、どこまでできるか全然分かりませんでした。


しかし2015年、鈴木は“復帰”という大きな一歩を踏み出した。その決意の裏には2011年の東日本大震災の影響があったのだという。


鈴木 以前の私は日々が楽しければいいという感じでした。でも2011年を境にもっと自分と向き合い、本当にやりたいことをやろうと思ったんです。

復帰に関しても、「パラリンピックの金メダルを持ってないからほしい」という気持ち以上に、もし2020年を目指さなかったら、50歳、60歳と年を重ねていったとき、絶対に後悔するなと。それならやるしかないと決めたんです。


復帰を決意したとき29歳。多くのバドミントン選手が引退していくなかで、競技者としてもう一度やろうと決めた。その勇気を奮ったところに鈴木の強さがある。


後編に続く

text & photo by Yoshimi Suzuki

『【前編】東京パラリンピックで金メダルを。 バドミントン・鈴木亜弥子 世界女王の覚悟』