-
- 競技
-
車いすテニス
車いすテニス界の新エース 菅野浩二、東京2020への覚悟と挑戦
車いすテニスの強豪・日本が近年、国際舞台で好成績を残している「クアード」。両手両足の四肢のうち、三肢以上に障がいのある選手のみが参加できるカテゴリーだ。そのクアードで日本の中心にいるのが、パワーショットを武器にする菅野浩二(すげの・こうじ)。車いすテニスを始めて15年経ってから、障がいの軽い「男子」カテゴリーから「クアード」カテゴリーに転向し、東京2020パラリンピックを目指す。珍しい経歴を持つ菅野はどんな思いで競技に取り組んでいるのだろうか。
クアードのエースとして感じた大きなプレッシャー
2001年ころ、車いすテニスを始めた菅野は、上肢に障がいがあっても「クアード」ではなく「男子」のカテゴリーで試合に出場していた。だが2016年に「クアード」に転向。わずか1年で日本代表に選出されるまでの成長を見せた。
菅野浩二(以下、菅野) クアードで東京パラリンピックを目指すと決めて、海外を回ることになりました。最初は移動や語学の不安もあって妻に帯同してもらったりしましたが、そんな中でも2戦目のチェコの大会で運よく優勝できて。成績を残すことができた楽しさもあったし、転戦に慣れるまでに時間はかかりませんでした。すでに世界で活躍している「男子」の日本人選手の存在も心強かったですね。
転戦を重ねる中で持ち味のパワーショットだけでなく、戦略性も磨いてきた菅野。転向後、わずか2年ほどで世界ランキングを3位まで上げた。そして、ワールドチームカップの日本代表にも選ばれる。
菅野 リオパラリンピックにも出場した諸石光照選手や川野将太選手がずっと日本のクアードを引っ張っていて、日本代表チームとして出場する国別対抗戦のワールドチームカップでも準優勝や3位などいい成績を残しながらも優勝にはなかなか届かない状態なのは知っていました。僕がクアードの日本代表になることで、「これで優勝できるよ!」と盛り上がってくれていたのですが、初めてチームに加わった2018年の結果は散々でした。そのときすでに国内ランキングでは、僕がいちばん高かったので、ベテランの2人がいるのに、自分がエースとして出場しなければならず、絶対に勝たないといけないプレッシャーに押しつぶされ、試合はボロボロでした。
2回目の出場となる2019年のワールドチームカップでは日本を初優勝に導くことになる。初めて大きなプレッシャーがかかった1年前の試合を経て、菅野の中で変わったのは、エースとしての自覚かもしれない。
菅野 1年経って、自分が日本代表の中で世界ランキングが1番高いという位置に慣れてきたのかもしれません。2019年は、僕と諸石選手、川野選手、宇佐美慧選手の4人でバランスよく戦えたんです。
とくに決勝の相手にもなったイスラエルとの試合では、予選で対戦したときに決勝に向けた準備をしました。決勝では、予定どおり川野選手と僕のシングルスで1勝1敗。僕と諸石選手で出場した第3試合のダブルスでは、チームが温存した諸石選手が絶好調で。僕たちの作戦勝ちで手に入れた優勝だと思っています。地元イスラエルのものすごい声援の中でつかんだ優勝はすごく自信になりました。
区切りのついた2016年。翌年からクアードへ
高校1年生、15歳のときに友人の運転するバイクの後部座席に乗っていて乗用車と衝突、転倒して首の脱臼骨折などの影響で頚椎損傷となった菅野。リハビリの一環で車いすバスケットボールの練習にも参加していたが、手に握力がないことや仕事との兼ね合いで徐々に車いすバスケットから遠のいていった。受傷してから5年が経ったころ、車いすテニス用の車いすを譲ってもらう機会に恵まれた。
菅野 受傷したころに知り合った方が車いすテニスをして、古いテニス用車いすを譲ってくれたんです。それがきっかけで、車いすテニスを始めました。そのころは仕事をしていない時期でもあったので週に2〜3回練習していました。テニスは自分がやりたいタイミングで、練習している人がいれば入れてもらえるし、健常者の友だちと球を打ったり、障がい者のための交流センターだと職員の方が一緒に打ってくれたり、始めやすいスポーツですよね。すぐに夢中になりました。当時は僕の住んでいた埼玉周辺の仲間たちと年3大会ほど国内の試合に出場していました。今と比べると気楽なもので、とにかく楽しかったですね。
25歳で現在勤めているリクルートオフィスサポートに再就職。それからも10年以上、男子のカテゴリーで試合に出場し続けていた菅野は、2016年、自身で立てていたひとつの目標を達成できたことで、新たな挑戦への決意をした。クアードでのパラリンピック出場だ。
菅野 男子のカテゴリーで国内ランキング上位8名までが出場できる「三井不動産 全日本選抜車いすテニスマスターズ」に出場するというのがずっと目標だったのですが、2016年にそれを達成することができました。ちょうどその年はリオパラリンピックがあり、大会の会場で、アトランタから6大会連続でパラリンピックに出場している斎田悟司選手にリオの話を伺いました。そのときに「クアードでパラリンピックに出れば、いい成績出せるんじゃない?」とアドバイスをいただきました。実は、数ヵ月前に母を亡くしていたこともあって、この先悔いを残さないように何かに本気で挑戦してみようと考えていました。それで、自分の障がいのレベルに合っているクアードでパラリンピックを目指してみよう、と思うようになったのです。
その後、国際テニス連盟に診断書を提出し、審査も受けて、2017年から正式にクアードのカテゴリーで出場することになりました。
東京では全力で攻めるプレーを見てもらいたい
東京パラリンピックを目指すには、世界ランキングをより高い順位に上げるポイントが必要になるため、海外の大会にも多数出場しなくてはならない。勤務先に支援を求め、手厚いサポートを受けることで、世界の舞台へ踏み出すことができた。
菅野 勤務先であるリクルートオフィスサポートのアスリート支援制度を使わせてもらうことにしました。ただ、その制度はテニス用に作られたものではなかったので、実は活動するには費用が足りませんでした。世界を転戦する車いすテニスはどうしても費用がかかるスポーツなので……そこで、グループ会社から支援してもらえないか、自分で企画書を作成して交渉を重ね、年間20大会分ほどサポートしてもらえるようになりました。
しかし、ランキングが上がるとまたお金がかかります。2019年になり、上位選手しか出られない大会にも出場する機会が増えたんです。男子の国枝慎吾選手や女子の上地結衣選手がコーチやトレーナーなどのチームで行動する姿を見て、今度は個人でコーチやトレーナーを帯同できるように会社に申し出てバックアップしてもらっています。
実は、当初世界に踏み出せなかった理由にお金の不安があったので……現在の環境は本当にありがたいですね。
自らの行動力や会社の理解によって環境も整いつつあるが、サポートしてもらう分、これまでにないプレッシャーも感じている。
菅野 最近、「負けられない」と強く思いすぎてパフォーマンスを出せないことがあったので、そういうところに陥らないようにしていきたいです。「男子」カテゴリーで戦っていたころは、人に期待されるようなテニスをやってきたわけではなかったから、やはりプレッシャーは重くのしかかっていますね。
もう自分だけのテニスではないし、楽しいだけのテニスではない――それでも、全力で強打したボールが決まると爽快感を得られるし、試合では波に乗れる。
菅野 スマッシュやフォアの強打でノータッチでポイントを取ることが楽しくて、今までテニスを続けてきました。でも、世界の上に行けば行くほど様々な戦略が必要になるし、クアードではこれまで以上にずる賢いプレーも必要になると実感しています。東京パラリンピックに出場できたら、戦略的に考えながらプレーすることが多くなるとは思いますが、やはり僕の持ち味であるパワーショットも見せられたらいいなと思います。
自国というホームで、どれだけの観客に囲まれて試合をするのかまだイメージできていないという菅野。インドネシア2018アジアパラ競技大会やワールドチームカップなど日本代表としての経験も積んだことで、クアードのエースとしてさらに覚醒していく姿に期待したい。
interview by Tomoko Sakai
photo Haruo Wanibe