陸上 走り幅跳び・中西麻耶。信用される絶対女王、4度目のパラリンピックへ

陸上 走り幅跳び・中西麻耶。信用される絶対女王、4度目のパラリンピックへ
2021.08.27.FRI 公開

現実としての6メートル
信用される絶対女王、4度目のパラリンピックへ

中西麻耶陸上競技人生は、思えばいつも逆風にさらされることの連続だった。キャリアをスタートさせてわずか1年足らずで北京パラリンピックに出場。日本のパラ陸上界を背負って立つ逸材として、その将来を嘱望された。

その後、パラアスリートがまだ海外に拠点を移すことが珍しかった時代に単身渡米。海外コーチをつけての活動は周囲から理解されなかった。資金難にも苦しんだ。それでも出場を勝ち取った2012年のロンドン大会、2016年のリオ大会。勝ち気な性格とは裏腹に、結果を残すことはできなかった。引退を考えたことは一度や二度ではない。それでもなぜか陸上を諦めきれなかった。2019年、世界選手権で初めて手にした悲願の金メダル。

そして去年、35歳にしてアジア記録を更新した。不屈、そう形容するほかない。それでもまだ道の途中。陸上を始めた時に口にした「6m」が今、すぐそこにある。

何度も陸上をやめたいなあと
思ったことがあったけど、それでも自分なりに
工夫をしながらやってきて、
それがまたこういう場面で活かされて……
なんか自分の人生を
振り返るきっかけにもなったんですよ。

――7月11日の陸上・兵庫選手権では5m46の跳躍を記録して優勝、東京大会に向けた調整も順調なようです。

調子はずっと悪くはなくて、ただ欲を言えばもっとこうだったら、ああだったらよかったなってことが自分の技術的なところに対しても、義足に対してもあって。今回は義足の調整に苦労していて、とても難しい、本当に細かい調整を今もしているところなんですけど……でも、トレーニング自体はすごくうまくいっています。

――いろんなことを経ての東京大会が目前に迫っているわけですが、2020年から現在までの1年半という時間をどう感じて過ごしてきましたか?

私は考えが昭和の人間というか、これだけSNSやLINEのようなアプリが充実していて、すぐに誰とでもコミュニケーションがとれる時代にもかかわらず、手書きの手紙を送ったり渡したりするほうが好きなタイプの人間で(笑)。だから、コロナ禍になって「人と会えなくて辛い!」って声がたくさん聞こえてくる世の中になって、対面で会うことの大切さ、人と人とのふれあいの大切さみたいなものを改めて感じるきっかけになったというか。そうやってもっとみんなの心が穏やかになっていってくれたらいいなって、とくに最初のほうは思っていましたね。

――オンラインでのビデオ会議ツールなどが普及した一方で、フィジカルなレベルでのコミュニケーションが減った社会が当たり前になったことで、アスリートにとってもいろんな変化があったと思います。

私の場合は、心理カウンセリングのコーチはもともと離れたところに住んでいたので、遠隔でのコーチングでした。ただ、トレーナーはどうしても対面で会うことができなかったので、怪我を負うリスクを考慮しながら練習メニューを組み立てていって、練習の質は落とさないように注意しながら、今はセルフケアで間に合うくらいの疲労感が残る練習内容にはなっていますね。
あとは、コロナ以前は頻繁に義足の調整に行っていたんですけど、緊急事態宣言が出ているあいだはやっぱり直接会って調整してもらうことも難しかったので、義肢装具士の方と話す時間は増えました。限られた時間の中で凝縮した内容の会話をしなければならなかったというか。
一方で海外の選手たちは日本よりもロックダウンが早かったり、規制も厳しかったりして、法的に「夢を追うのをやめなさい」って言われているような、すごく酷な状況だったと思うんです。それですごく心配になって、連絡をとったりしてみたんですけど、みんなすごく前向きにやっているというか。こんな思いで1年間、辛抱して準備している選手たちがいるんだから、日本は受け入れる立場として、何をどう準備できるんだろうっていうことは、友だちともよく話しながら考えていましたね。

――先がわからない状況の中で、それでも環境に順応しながら日々トレーニングをこなすのは簡単な作業ではないですよね。

今までいろんな経験をしてきて、何度も陸上をやめたいなあと思ったことがあったけど、それでも自分なりに工夫をしながらやってきて、それがまたこういう場面で活かされて……なんか自分の人生を振り返るきっかけにもなったんですよ。だって、これまではずっと遠征続きで、こんなに自分の家にいる時間が長いのも、人生でどれくらいあったのかなあって思うし。アスリートとしての自分と、一人の人間としての自分と、その切り替えがしやすくて、コロナ禍になってむしろすごく余裕が生まれたんです。

――焦りや不安ではなく、余裕。

自分のこれまでの競技人生を振り返っても、競技場のスケジュールに沿って練習メニューを考えて、トレーナーやカウンセリングコート、スタッフのスケジュールをすべて把握したうえで、誰がいつ空いていて、何時から練習するとかすべて自分で決めなければならなかったし、それにこういった取材の調整とか挨拶まわり……あとは家にワンちゃんを飼っているので、遠征に行くあいだはどこかに預けなきゃとか……そんな生活を送っていると、部屋中に何個もトランクケースが並んじゃって、家のベッドで寝ることだって年に数回しかないような日々だったんです。だから、今みたいに家で料理する時間なんてありえなかった。

でもね、どんなに考えても考えても、
最後は勝つしかないんですよ。
私はいい人生を送っているんだっていう姿を、みんなに見せるしかないんです。

――中西選手はコロナ禍になってから、それまで長く拠点にしていた大分県を離れて大阪に移られました。アスリートにとって生活環境を変えることはストレスや負荷のかかることで、ましてや東京大会の前年に決断するっていうのはとても勇気のいることだったと思います。

ほんっとうにたいへんでしたよ(笑)。1回目の緊急事態宣言の直前に大阪に引っ越して、そのあとすぐ大分にいた知り合いや親族が立て続けに亡くなってしまったんですけど、どこか泣きに行く場所もなければ、話を聞いてもらえる友人も近くにいない。ただ家の中で過ごさないといけないし、生活の基盤をつくるのに必死でなんとか誤魔化していたんですけど、流石にこれはヤバいなあって思う時もありました。
それにたとえパラリンピックが無事に開催されたとしても、まだまだ新型コロナウイルスと正しい付き合い方を探っていかないといけないだろうし、それまでは実家のある大分に戻るのは難しいだろうなって。今でもただただ早く地元に帰れる日が来ればいいのにって思いますよ。

――過去にはアメリカでの生活も経験されていて、それこそ遠征で海外を飛び回ることも多く、環境への適応という意味では十分に経験があると思いますが、今回の移住は必ずしもポジティブなものではなかったかもしれません。過去の経験と違う難しさは感じていますか?

やっぱり今まではみんなに心から「頑張ってきてね!」って見送られて、自分を奮い立たせて、そしてまた胸を張って帰ってくる、という感じで出発することが多かったですからね。今回の移住はそもそも急だったし、大分に一緒に住む高齢の家族を守るためのやむをえない決断だったので、少なからずショックだったり、家族にとって自分は重荷になってるんじゃないかとか、そういうことを感じながら出てこなければならなかったので。ずっと大分で地元と一緒に世界を目指すということで頑張ってきたので、お世話になったみんなになんの感謝も伝えられないまま出ていくことは、どこか裏切ってしまったような気持ちにもなりました。
でもね、どんなに考えても考えても、最後は勝つしかないんですよ。私はいい人生を送っているんだっていう姿を、みんなに見せるしかないんです。

――今でも「早く地元に帰れたら」という思いがあるということでしたが、それでも大阪に移ってから新しい目標を立てて、練習に集中していく必要がありましたよね?

やっぱり結局、誰にアドバイスをもらおうが、誰に相談しようが、最後に決断するのは自分で、決断した以上はたとえどんな理由があったとしても、その判断に責任をもってやるしかないんですよ。その覚悟はもちろん大分を離れる時にももっていたものだし、あとはその土地、その土地でしか会えない人が必ずいるので、その出会いを大事にすればきっとまた何かいいことがあるはずだって思いながら切り替えていったところはあります。
あとは、さっきも話したように、海外の選手に比べれば自分は練習の機会自体を奪われたわけではなかったので、その海外の友だちたちのぶんも頑張ろうって、練習の際にはいつも噛み締めながらやってましたね。

――実際、大阪では新しい出会いはありましたか?

たまに練習で使わせてもらっている枚方市の競技場があるんですけど、そこは市長から直接激励してもらって、今回、東京大会出場っていう懸垂幕も市役所に飾ってもらったりもしています。最初、伊丹市に引っ越した時も、市長に挨拶に行った時にはたくさんの陸上関係者や体育協会の方々をご紹介していただいたりして、こういう河川敷があるけど練習場所にどうかな、とか、いろんなアドバイスをいただきました。

――中西選手は東京大会の延期が決まったあとも、2020年の夏に向けてピーキングしていくという当初の予定はブラさずに、実際に2020年9月の日本選手権では5m70で自身がもつアジア記録を更新しました。これまで話してきたように、精神的にも肉体的にも難しい2020年だったと思いますが、この結果はどれくらい自分を後押しするものになりましたか。

もちろん延期にはなったけど、それによって目標が失われたわけではなかったので、当初やろうとしていたことが正解なのかどうかを、まずはやり通して確認したかったって思っていて。去年の日本選手権での記録もすごく良かったと思っているし、自信をもって挑んだ大会で結果も出ました。無観客だったけど雰囲気も良かったし、こういう場面で力をちゃんと発揮できたというのは2019年の世界選手権で金メダルをとったことで、自分がひとつ成長した証なのかなって感じましたね。

――いよいよ長年目標にしていた「6m超え」も見えてきたんじゃないですか?

そこの目標はこの競技を始めてからずっとブレていません。去年9月に記録を出して、さらに2021年に向けて一段階強度を上げて取り組めるわけですから、ピーキングの流れもコツも去年と同じような感じですけど、強度が明らかに変わっているのは実感できています。

以前は「遠いなあ」って
ずっと思っていたんですけど、
最近は「もうすぐそこじゃん」って感じで。
「6m」を現実のものとして見ている
自分がいるんです。

――改めて中西選手にとっての「6m」という数字、競技人生においてこの目標とどう向き合ってきたのかを教えてもらえますか?

20代前半の時にこの数字を目標に掲げたんですけど、当時はほとんど誰からも相手にされませんでした。私は21歳の時に事故に遭って陸上に転向したんですけど、母校の中学にも高校にも陸上部がなくて、陸上に関して頼る人や恩師と呼べる人が誰一人いませんでした。
たまに心が折れて高校の恩師のところへ相談に行ったりしたんですけど、ソフトテニス目線のアドバイスでまったくしっくりこないんですよ(笑)。それでずっと一人でもがきながら取り組んできたので、もともと陸上をやってた子とかと会うとすごく羨ましい気持ちになっちゃって。でもね、結果が出なくてもずっと続けて30歳も過ぎてきた頃になると、だんだん応援してくれる人、安心できるスタッフがまわりに増えてきたんです。そうしたら自分の負担が減って、競技にかけられる時間が増えていって。

――長く期待を受けながらもなかなか結果が出ず、もがき苦しみながら、それでも前に進もうとする姿は多くのスポーツファンが目にしてきた光景でもあります。

20代の頃は企業に営業に行っても「パラリンピック? 何よそれ」って感じでしたからね(笑)。今でもこの状況を20代で手に入れることができていたら、もっと早く6mに手が届いたんじゃないかって思うこともあるけど、でも、陸上を始めてからこれだけは自分の中で手放したくないって気持ちがどんどん強くなっていくんですよ。継続してこの年齢までやってこられたこと、その自信があれば、諦めなければ必ず6mを跳べるんだっていうのはどんどん実感として強くなってきています。

――それこそ2年前、5m70の記録を出したあとで、中西選手の口から「6mってこんなもんなのか」という発言があって、いよいよ現実的に手が届く距離にあるという確信に変わった瞬間でもあるのかなって。

荒川コーチと一緒に練習する時、いつも6mのところに印をつけてくれるんです。以前はそれを見て「遠いなあ」ってずっと思っていたんですけど、最近は「もうすぐそこじゃん」って感じで。「6m」を現実のものとして見ている自分がいるんです。

――世界選手権直後には、「そろそろみんなに信用してもらえるアスリートになりたい」という発言もされていて、この言葉の真意をずっと伺ってみたいなと思っていたんです。「信用してもらえるアスリート」って、すごく強い言葉ですよね。

アハハ、私、自分の思ってることを素直に吐き出しすぎるから、いつもいろんなところからバッシングを受けるんだろうなって思います(笑)。私が障がい者になったばかりの頃って、障がい者は立場が弱くて、座っていればなんでも手に入れられてって、まだそんな感じの雰囲気がすごく残っていて。それがすごくイヤだった。
だってお母さんが介護してくれていたとしても、お母さんが死んだらその先は自分自身で生きていかなきゃいけないし、男だろうが女だろうが、自分で生きていく力は養っていかないといけないんじゃないかって、ずっと感じていたんです。
そういうこともあって、性格的にもすごくキツかったから(笑)、どんなに記録を出しても「エントリー数が少ない」とか、「日本記録は世界記録と比べれば大したことない」とか、そんな嫌味を言われることもすごく多かったんです。

――なかなか素直に受け入れてもらえなかった、と。

そのぶん期待も受けていたんですけど、私自身、大事なところでいまいち勝ちきれていないこともあって、ずっと「6m跳びたい」「金メダルとります!」って言いながら、跳べず、とれずで終わってしまうことが続いていました。
自分はどこかで成功よりも失敗を期待されているんじゃないかって感じるような時期もあって……それで世界選手権でやっと金メダルをとって、一番高い表彰台に立った時に、もうそろそろ「日本と言えば中西麻耶」って思われるような、「うちには中西がおるんじゃ!」って強く送り出してもらえる選手にならなきゃって。それでああいうことを言ったんだと(笑)。東京大会はみんなに応援してもらえる、中西なら何かをやってくれるって、そういう信頼感を得られたんじゃないかなって。

――中西選手にとって、メダルを取ることと記録を更新することの違いってありますか?

メダルをとることはみなさんのためにしたいこと、記録を破るのは自分のためにしたいことですね。

――「絶対女王」として、東京大会で新しい歴史を切り拓いてくれることを期待しています。

2日前の兵庫選手権は、久々に健常者と同じ記録会だったんです。いつも健常者の記録会に立つと、どこか「私は私のカテゴリで頑張らせていただきます」って感じで彼らの記録とは区別しちゃうところがあったんですけど、今回は同じフィールドにしっかり立てていました。負ける気がしなかったんですよ、本気で勝ちにいってたんで。最終リザルトは及ばなかったんですけど、やってきたことに対してすごく自信をもっているんだと改めて感じることができました。東京大会も勝ちにいきます!

中西 麻耶 | Maya NAKANISHI
1985年生まれ。陸上競技・走り幅跳びT64クラス(片下腿義足)。学生時代は大分県内でソフトテニスに明け暮れ、21歳の時に仕事中の事故により右足を切断。ソフトテニスのトレーニングのために取り入れたランニングでパラ陸上に目覚め、初めて出場した日本選手権では100m、200mそれぞれで、当時の日本記録を更新。23歳の時に北京パラリンピックに2種目で出場。以降、ロンドン大会(走り幅跳び)、リオ大会(走り幅跳び/100m)に連続出場。2019年、世界パラ陸上競技選手権大会で自身初となる金メダルを獲得し、東京大会の日本代表に内定。2020年9月の日本パラ陸上選手権ではアジア記録を更新する5m70をマークし、6m超えの跳躍に期待が集まる。阪急交通社所属。

interview by Senichi Zoshigaya
photo by Mika Ninagawa

※本記事は写真家・映画監督の蜷川実花氏がクリエイティヴ・ディレクションするパラスポーツと未来を突き動かすグラフィックマガジン『GO Journal』(ゴー・ジャーナル)の最新号ISSUE05掲載コラムを元に制作しています。

↓『GO Journal』公式サイト
https://www.parasapo.tokyo/gojournal/

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