車いすラグビー 日本代表キャプテン・池透暢。千紫万紅の12人で掴む世界一

車いすラグビー 日本代表キャプテン・池透暢。千紫万紅の12人で掴む世界一
2021.08.28.SAT 公開

キャプテンが優れている必要なんてない
千紫万紅の12人で掴む世界一

全体重を乗せて仕掛けるタックル。転倒。床に激しく打ちつけられる選手たち。数秒おきに体育館に響き渡る鈍い衝突音。かつて「殺人競技(マーダーボール)」と呼ばれた物騒な異名とは対照的に、池透暢は拍子抜けするほど物腰が柔らかく、たしかなキャリアと自信に裏打ちされた穏やかで明快な語り口が印象的な男だった。
車いすラグビー日本代表にしてキャプテン。2018年に世界選手権を制し、2020年に向けて視界良好かと思われた矢先に世界中を襲ったパンデミック。東京2020パラリンピック直前、円熟味を増すベテランが振り返るコロナ禍、リーダー論、アメリカ生活。そして、夢に向かって突き進む息子たちに伝えたい父親としての思い。

ちゃんと弱音を吐ける場所だって
安心してもらうことで、
それを支える側が盛り上げたり、
風向きを変えることもできるんです。

――2020年から続く世界的なパンデミックによって、東京オリンピック・パラリンピックを目指すすべてのアスリートにとって難しい1年半になったと思います。池選手にとってこの「1年半」とはどのような時間だったのか、振り返っていただけますか。

何よりもまず感じたのは、得体のしれない恐怖ですよね。新型コロナウイルスがどれだけの殺傷能力があって、どれほど怖いのか、最初はすごく漠然としていましたから。当然、神経質にもなりましたし、だからこそ今まで当たり前にできていたことがいかに尊いものなのか、健康でいられる自分や家族、友人……そういう存在に改めて気付かされる時間だったなと思います。

――この1年半で得たものがあるとすれば、それはどんなことでしょうか?

自分自身も代表チームも東京大会に向けて少し鼻息が荒かったというか、もし新型コロナウイルスが流行せず、2020年も当初の予定通りパラリンピックに向けて突っ走っていたとしたら、どこかチームの成熟度が足りなかったのかもしれません。だからこの延期というのは、ある意味ちょっと熟成させる期間でもあったなって思います。長いあいだ、コンディションのピークを2020年の8月に設定して、そこから逆算して計画していたものを一度すべて白紙に戻さないといけなくなった。2016年のリオ大会以降、2020年に向けてひと呼吸で一気にガーッと進めていかなければと考えていましたけど、一回大きく深呼吸したような感じ、というか。

――深呼吸、ですか。

自分が大切にしてきたいろんなものごとに優先順位をつけて、整理し、自身を再評価したうえで計画を練り直していくというか。これまで(ラグビーに充てる時間が長くて)家族の時間を思うようにはつくれたことがなかったんです。
今、僕には14歳と11歳になる息子がいるんですけど、運動会などの学校行事には、大会や合宿と重なってしまうことが多く、1、2回しか行ったことがなくて。それくらい家族や子どもとの時間がなかったんです。コロナ禍で子どもと向き合う時間が増えて、自分にとっては、なんというか大人の夏休みみたいな感じ。家の周りをちょっと掃除してみたり、船舶免許をとって大好きな釣りに行けるようになったり、これまでの人生でやれなかったことをやれた時間でもありました。どうしてもイヤなことばかりに目がいくので、今後の自分の人生にとってプラスに変えられることに力を入れようと思いましたね。

――意識としてそうあろうと思っても、気持ちと行動が乖離してしまう人も多かったと思いますし、今もそういったことに苦しんでいる人も多いかもしれません。

僕も最初の1ヵ月くらいはもっと複雑で、現実がなかなか自分の中にスッと入ってこなくて、すぐにポジティブにはなれませんでした。でも、僕はけっこう人生がうまくいき始めるタイミングで、突然うまくいかなくなる瞬間がズドンってやってくる、ってことが多くて(笑)。
交通事故で友人も身体の自由も失って、なんとか命だけは失わずに済みましたが、2年半で40回を超える手術を経験して。「今回が最後の手術だ」、「これですべての手術が終わる」、そう言われても術後の経過が思わしくなく、またすぐに手術がやってくる。終わりが見えなくて、その度に心をかき乱されてきました。
車いすバスケを始めてからやっと日本代表候補として合宿に選ばれるようになり、合宿に参加していよいよ国際大会にも出場できる可能性が見えてきた矢先に、足の付け根に動脈瘤が見つかって、しばらく運動から離れないといけなくなったり。疲労骨折で3年ものあいだ完治せず、努力すらさせてもらえないのかという絶望にすぐぶち当たるんです。そういう経験があったから、うまくいってる時ほど注意深くなったし、気持ちを切り替えるってことが身についてるのかな。

――コロナ以降、初めて代表チームで集まって練習をした時には、「個々の対人能力が落ちててびっくりした」ということもおっしゃっていました。改めて2021年の東京大会を目指すにあたり、当時のチームの雰囲気がどうだったか憶えていますか?

たしかにみんな対人能力は落ちていたんですけど、でもやっぱり久しぶりに会えた喜びのほうが大きくて。みんなで「うわっ、こんなことができなくなってる!」って笑いながら、すごくポジティブに何が落ちているのか言い合ったり、洗い出したりする感じというか。でもまずは、集まれたことへの感謝ですよね。もちろん合宿を開催するかどうかについての話し合いはシビアでしたし、選手たちとスタッフたちとで、いろんなリスクや感染対策についても議論を重ねて。ピリピリした雰囲気もあったけど、でもみんな同じ方向を向いてのことですから、とくに心配するようなことではなかったです。

――日本代表チームのキャプテンとしては、コロナ禍でどんな難しさを感じていましたか? チームメイトやスタッフ、コーチとのコミュニケーションはどうしていたのでしょうか?

2020年の開催延期が決まった時は、すぐにチームのLINEグループでそれぞれが意見をコメントしあいました。思いや考えを共有することがまず大事だと感じていたので、僕も思いの丈をバーッと言葉にして送ったり。中には気持ちの切り替えがうまくいかない選手、モチベーションが上がらずに精神的に落ちてしまう選手がいたのも事実です。
でも当時、僕はそれでいいと思っていました。人にはそれぞれのタイミングがあるし、“その時”じゃないのに無理矢理起こされても、ズルズル引きずってしまって前には進めません。みんな日本代表に選ばれるようなレベルの選手たちで、そこの強さはもってると信じていたので、キャプテンとして無理にコミュニケーションをとったり、促したりするようなことは一切やりませんでした。
一方でトレーナーやコーチを安心させるために、その時に自分が取り組んでいることや練習メニューを共有するってことは積極的にやっていました。選手同士がつながることはもちろん大事ですけど、アメリカに住んでいるケビンHC(ヘッドコーチ)や離れた場所にいるトレーナーたちに心配をかけないようにしようとは思っていましたね。

――チーム全体の危機の時に、選手だけではなくスタッフや周りの人も含めてコミュニケーションをとれるっていうのは、日頃からチームワークが良くないとなかなかうまくいきませんよね。

代表チームでは、何かが起きた時にみんなでコミュニケーションをとるってことが多かったかもしれません。それぞれが頑張ってる姿って目に見えるんで、みんなお互いに認め合えるけど、やはりいろんな選手がいるので、弱みや苦労している姿をさらけ出していくことも大切なんじゃないかなって思っていて。困っていることでも、怒っていることでもいい。ちゃんと弱音を吐ける場所だって安心してもらうことで、それを支える側が盛り上げたり、風向きを変えることもできるんです。
代表にはいろんな選手が出入りするので、たとえすぐに船に乗っかれていない選手がいても、「少し先で待ってるよ」と態度で示してあげる。そんな感覚で接するように心がけていました。

――このインタビューの直前に行われたオンラインの囲みの取材でも、そうした池選手のキャプテンシーやリーダーシップに関して多くの記者から質問があったのが印象的でした。2014年に日本代表チームのキャプテンに任命されて以降、自分の中でキャプテン像に対する考え方ってどう変化しましたか?

ありがたいことに、こうしてキャプテンに関する取材を多くいただくことで、逆に自分のキャプテン像に気付かされることのほうが多くて(笑)。リーダー論とかそういうテーマには興味もあるので自分でもよく本を読むんですけど、僕個人としては、自分の芯を保ちながら正義感をもち、誰でも分け隔てなく耳を傾けてくれるような、そういうリーダーが理想だなあと思っています。グイグイ引っ張っていくような、すべて自分でやっちゃうようなキャプテンだと周囲が育たなくなったり、意見を言えなくなることもあるだろうし、キャプテン自身が優れていればいいってわけではないというか。

――先ほどおっしゃっていた「チームをちゃんと弱音を吐ける場所に」という意識にもつながる話です。

そうですね、キャプテンである僕自身もみんなに相談するし、時にできないフリをすることも、あえて誰かのために進んで何かをしない、ということもあります。誰かに任せることってこれからの未来につなぐってことでもあるし、キャプテンだからってあれもこれもやりすぎない。「この一言を言いたいけど、ここで我慢したらどうなるだろう……」って、あえて言わないこともあります。

――子どもの頃から周囲の人たちをまとめたり、リーダーシップをとるようなタイプでしたか?

友だちが集まったりすると、わりとパッと音頭をとるほうだったかもしれないですね。中学時代にバスケ部でキャプテンもやっていたし、車いすバスケをやっていた時も所属するチームではキャプテンをやっていた時期もありましたし。でもずっと同じスタンスというよりは、いろんな本で読んだことや、実際にこれまで会ったリーダーたちのいいと感じた部分を自分の中でミックスして、試しながら手探りでやってるような感じです。ありがたいことにケビンHCからは「十分にやってくれていて、何も言うことはない」と言ってもらっています。でも、僕としては叱られて成長するところもあるので、時には叱られたいですけどね(笑)。

――東京大会に挑む12人のメンバーが発表されたばかりですが、リオ大会の時と比べても世代に幅がありますし、日本初の女性選手として、2017年以来代表に選ばれている倉橋香衣選手も選出されました(※)。それぞれに個性が立った選手たちとともに大会に挑むことになりますが、このチーム編成を池選手はどう見ていますか?

東京大会に挑む12人は、プレーの面では非常にキャラクターをもっているプレイヤーだと思います。たしかに世代には少しバラつきがあって、若い世代が増えてきているのが特徴です。まだコート外では年配の人たちに遠慮している様子も見られるので、もっともっと若い選手たちが感じていることを自由に発言できる雰囲気をつくっていきたいし、ベテランが気づいていないところを指摘してくれることが大切なのかなって。彼らは東京大会のその先を担っていくメンバーなので、一歩でも二歩でも前に出てきてほしいですね。

※車いすラグビーは男女混合競技であり、倉橋は日本代表初の女性選手でもある。コートに入る4人の選手たちはそれぞれに「持ち点」が与えられており、障がいの程度や運動機能に応じて7段階に振り分けられる。もっとも障がいが重いほうから0.5点、そこから0.5点刻みで3.5点が最大ポイントとなる。コート上に女性選手が加わる場合は、持ち点の合計に0.5点が加算される。1チーム4選手の持ち点合計が8点以下で構成されなければならない。

自分の存在意義を
もう一回感じることができたのは、
アメリカでの生活で
何より嬉しく感じたことですね。

――リオ大会を銅メダルで終え、その後、代表チームは2018年に世界選手権を制覇します。2019年には世界ランク上位8カ国で争うワールドチャレンジ2019があり、準決勝で強豪オーストラリアに敗れて3位。チームとしては初めてディフェンディングチャンピオンとして、追われる立場としての難しさを経験したと思います。大会後には、池選手の口から「未完成の部分を詰め切れていない、チームとしても気持ちが上がらない」といった声も聞こえてきました。

世界選手権で優勝したあと、しばらくは世界一をキープできている自覚も雰囲気もチームにあったんですけど、それ以降、選手やスタッフの口からも「なんかパフォーマンス落ちてない?」といった声が漏れるようになって。自分としては東京大会まで全勝して突き進んでいきたかったし、難しいけどそこにチャレンジすることが重要だと考えていたけど、チームの中には「負けて強くなる、負けて学ぶことのほうが多い」って考えているような違和感がどこかあって。みんなに確認したわけじゃないけど、どこかに甘さを感じていたんです。
選手の入れ替えやチャンスを与えるってことは、長い目で見ると強化の観点からは大事なんですけど、それでも毎ゲーム、毎大会勝ち続ける凄みを個人としては追い求めていきたかったんですよね。そういう葛藤はたしかにあったんですけど、自分がチームとしてどう向かっていくのかをもっと発信することができればよかったんだって、今はそう思いますけどね。

――池選手ご自身としても、当初予定されていた2020年の東京大会本番を見据えてアメリカに活動の拠点を移し、現地のチームに所属してリーグ戦を戦うというチャレンジに踏み切りましたよね。

2018年10月から2019年4月までのワンシーズン、アラバマ州のチームに加わってアメリカリーグに参戦しました。過去にないくらいベストなコンディションで、国外に出るっていうちょっとした勇気も含めて、競技人生では最高のタイミングでした。
僕が選んだのはディヴィジョン2で最下位のレイクショア・デモリッションというチームで、自分が頑張らなければ勝利に導くことができないようなチーム力。でも、近くにはアメリカ代表が合宿を張るような有名なサイトがあって、プールもある、ジムもある、体育館も3面あって、宿泊施設も完備。日本代表のケビンHCも車で30分ほどの場所に住んでいたし、ラグビーに専念する環境としては申し分なかったです。
結局、チームをディヴィジョン1の5位まで押し上げることに成功したんですけど、同じ代表の池崎(大輔)さんや島川(慎一)さんが所属するような全米トップを争うチームと戦うには力およばずで。

――カナダも含めて、北米のチームはパラリンピックでも日本のライバルになりますよね。プレー面では、アメリカでの経験で大きく成長した部分っていうのはどういうところだと感じていますか?

じつはラグビー観みたいなものが大きく変わったってことはなくて、僕としては日本代表でやってるようなプレーをしたかったけど、コミュニケーションもカタコトの英語しか喋れないし、まずは彼らのやろうとしていることに沿っていこうと。チームのレベル的にも、ちょっと点差を開けられたりするとシュンっとなって集中力が切れたプレーを始めるので、「まだ試合は終わってないぞ!」とか、「プレーし続けろ!」とか、コートに立つ以上は最低限のことをやってくれと要求したりだとか。戦略的にも日本代表のキーアタックの戦略を教えるわけにはいかないから、どちらかというとハイポインターがどんどん走っていくような、いわゆるアメリカ的なプレーを実践しました。そしてレイクショアチームが考える戦略に、私の思う戦略を融合させることで、チームはだんだんと強くなっていったんです。緻密な戦略の中でラグビーができたかというとそうではないけど、いろんな経験をするという意味では最高のチームでした。

――生活面ではどうでしたか? 車いすでの現地の生活、それも単身乗り込んだわけで、プレー面以上に難しさはあったんじゃないかなと想像できます。

空いた時間に一人でトレーニングをして、買い物にいって、自炊して……全部自分でやっていましたね。チームメイトに買い物に連れて行ってもらったりするんですけど、いろんな選手たちと話す中で、自分自身の競技人生やこれからの人生をどう歩んでいくべきなのか、向き合うことができたのが何より良かったことです。
両手両足のない選手から「寿司、食べに行こうぜ」って誘われて、その人が運転する車に乗っていったんですけど、腕のない人の運転する車に乗るの、めっちゃ怖いと思っていたんですよ(笑)。でも実際に乗ってみると運転が上手くて感心しました。他にも、戦争で首を打たれて障がいを背負った選手からは「お前がここに来てくれたおかげで、自分の目標がもっと大きなものに変わった」って言ってもらったりだとか。いろんなハンディがあって、今まで自分が我慢してきたこと、やれないと思って諦めていたことが、じつはやれるんだってことを新たに知ることができた。日本にいても海外にいても、自分の影響で何かをプラスに転じることができる瞬間に出会えた。そんなふうに、自分の存在意義をもう一回感じることができたのは、アメリカでの生活で何より嬉しく感じたことですね。そうだ、ケビンHCと一緒にバス釣りできたのも、小さい頃からの夢だったので最高の思い出です(笑)。

――アメリカに行く以前から、初めからワンシーズンだけと決めていたんですか?

そうですね、2020年以降は東京大会に向けて国内での強化に集中するつもりだったので。ただ、アメリカを離れてからも2シーズン連続でオファーをいただいて、とてもありがたかったんですけど「東京大会が終わったらね」ってお断りさせていただきました(笑)。

――多くのパラアスリートにとって、開催される大会は年間を通してけっして多くないですし、国内では競技人口やチームが少なかったり、日常的に海外の選手と切磋琢磨する環境って自分の意思で明確につくっていかないと得られない難しさがあります。池選手はご自身の経験を、もっと若い世代に還元したいと考えていますか?

もちろん、もうどんどんトライしてほしい。正直ラグビーのことよりも、むしろ広く社会を知る、学ぶことが大切で。やっぱりいくら代表とはいっても、パラアスリートとかラグビーってとてもとても狭い世界で、社会のほんの小さな一部でしかない。世界に出て、それまでの自分の世界だけじゃない部分を見ることで、またそれが誰かに還元されていくはずです。
インターネットで情報はいくらでも手に入りますけど、そこの場所に行き、生の声、感覚を肌で感じることはとても大切。今は日本でもラグビーを取り巻く環境が成熟してきて、じゃあ発展途上国はどうなのかとか、今後は普及活動も含めて自分たちが貢献できることってもっとあるはずなので、そういうことにも挑戦してみたいですね。

でも僕が挑戦することで、息子たちには、
高知県っていう自分の育った環境だけの
ものさしではなく、
もっと大きいものさしでものごとを見たり、
外に出ていくことが自分の可能性を
高めるんだよってことを体現して見せたかった。
――取材の冒頭でお二人の息子さんのお話が少しありました。今回の東京大会の出場にあたって、ご家族の反応はどうですか?

家族のLINEで「パラ、出場決まったよ」って送ったら、息子からは「え、まだ決まってなかったの?」って、驚いた返事がありました(笑)。長男も次男もサッカーをしていて、長男は今自宅を離れて、静岡で寮生活をしながらサッカー漬けの毎日です。

――普段から息子さんたちとは、お互いの競技に関してお話はされたりしますか?

そうですね、長男とは自信をつけるにはどうしたらいいとか、緊張する時、うまくいかない時にどうしたらいいかとか、そういう話をしたりしますよ。父親の意見なんて、彼らは求めていないかもしれないけど(笑)。でも、自分の夢に向かって進むためには、誰もが簡単にはできない努力をする必要があるって、そういうことは伝えています。
じつは自分がアメリカに行ったのは、息子たちのためでもあるんです。息子たちからしてみれば、父親は生まれながらにして車いす生活でやってあげられないことがたくさんあった。でも僕が挑戦することで、息子たちには、高知県っていう自分の育った環境だけのものさしではなく、もっと大きいものさしでものごとを見たり、外に出ていくことが自分の可能性を高めるんだよってことを体現して見せたかった。それがアメリカに行くという決心につながったんです。

――その息子さんたちも見守る東京大会に向けて、目標はかねて公言している金メダルで間違いないと思いますが、その目標のために何がもっとも大事になるか教えてください。

そうですね、ほとんどぶっつけ本番ではあるけど、ここまでのチームの仕上がりやこれまでの準備を考えても、自分たちが優位な立場にいるという自信があります。東京大会が始まって、「自分たちの力を信じて突き進めるぞ」って確信を得るためにも、何よりもまず初戦であるフランス戦が大事になってきます。その戦いを終えたあとに、気がつくことがたくさんあるはずです。まずはすべて、その一戦に向けて準備していきたいと思います。

池 透暢 | Yukinobu IKE
1980年生まれ、高知県出身。車いすラグビー3.0クラス。中学時代にバスケットボールを始める。19歳の時に交通事故に遭い、左足を切断。また全身の7割以上に火傷を負い、左手の感覚を失う。2012年に車いすバスケットボールから車いすラグビーに転向。2014年からは日本代表のキャプテンを務め、2016年のリオパラリンピックでは史上初の銅メダルを獲得。2018年の世界選手権で初優勝。2019年10月から翌4月まで、アメリカ・アラバマ州バーミンガムのチームに所属しプレー。東京大会では2大会連続キャプテンとして金メダル獲得を目指す。日興アセットマネジメント所属。

interview by Senichi Zoshigaya
photo by Mika Ninagawa

※本記事は写真家・映画監督の蜷川実花氏がクリエイティヴ・ディレクションするパラスポーツと未来を突き動かすグラフィックマガジン『GO Journal』(ゴー・ジャーナル)の最新号ISSUE05掲載コラムを元に制作しています。

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