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水泳
【独占インタビュー】内戦で片足を失った難民パラリンピアンは語り続ける
2021年8月、東京2020パラリンピック。6人のアスリートで構成された難民選手団のひとり、イブラヒム・アル・フセインは、男子水泳100m平泳ぎ(SB8)と、50m自由形(S9)に出場した。体調を崩し、ドクターストップがかかるなかでの渾身のレース。泳ぎ切ることこそ、使命だと感じていた。彼が命がけで伝えたかったことは何か。難民パラリンピアンの思いを聞いた。
1988年9月23日、イブラヒムはユーフラテス川のほとりにある街、デリゾール(シリア)で生まれた。2011年、シリアでの内戦が始まる前は、日本の若者と同じように、命の心配などないのが当たり前の生活を送っていた。明るい笑顔を見せるイブラヒムには、友人も多かったに違いない。
イブラヒム・アル・フセイン(以下、イブラヒム) 子どものころは、友だちと釣りに行くのが好きでした。16歳のとき、アテネオリンピックが開催され、競泳を見ながらどうしたら僕もオリンピックに行けるのかなと思ったことを覚えています。
同時にイブラヒムは柔道にも打ち込んでいた。
イブラヒム 海外でも成績を残している元水泳選手の父の影響で、5歳から水泳を始めました。でも、父は厳しくて頭が固く、僕は反発心から10歳のときから柔道を始めたんです。国際大会に出るチャンスもありました。だから、僕は、水泳より柔道に育ててもらった思いがありますね。努力を続ければ成功できるんだ、という粘り強さを学びました。
しかし、内戦が始まると、スポーツを軸とする日常は一変する。のどかな街は空爆で破壊し尽くされ、水や電気は途絶えた。かつて釣りを楽しんだ友だちは皆死んだ。
イブラヒム 今生きていても、いつ誰が死んでもおかしくない状況でした。あるとき、1分間でどれくらい空爆があるのか数えたら、48発もあって……。おそらく街に残った人で、生き残ったのは5%くらいだったのではないでしょうか。
慟哭(どうこく)と恐怖が溢れるすさまじい状況だ。イブラヒムの家族は、多くの人と同様、海外へ避難した。だが、当時23歳のイブラヒムには、デリゾールから逃げ出せない理由があった。
イブラヒム もし、デリゾールを離れようとしたら、政府軍に捕まって即入隊させられることが分かっていました。もし拒めば死が待っているし、受け入れれば、誰かを殺さなければならない。僕はそのどちらも嫌で外に出られなかったのです。
そのようにして過ごしていた内戦2年目のことだった。訪ねてきた友人を見送った直後、スナイパーに脇腹を打ち抜かれた友人の「助けて!」という叫び声が聞こえてきた。その瞬間、イブラヒムは友人の元へ。と同時に砲撃があり、イブラヒムの右足のすねから下が吹き飛ばされた。
イブラヒム 友人を助けることに一瞬の躊躇もありませんでした。たとえ通りすがりの人でも同じことをしたと思います。結果として、僕の足はなくなりましたが、友人は助かり、その後、トルコで3人の子どもの父になったので、これでよかったのです。あとから考えてみれば、このとき、僕が砲弾で死ななかったことは、もっと人を助けろという運命だったのだとも思っています。
この被弾でイブラヒムは死の淵をさまよった。目覚めると、危険を顧みずシリアに残っていた歯科医が、精一杯の手術をしてくれていたが、「この処置が正しいのかわからないし、これ以上治療できるものが何もない」という。彼は、「ここにいたら死を待つだけだから、君は逃げろ」と背中を押した。そこで車いすのイブラヒムは、明け方、友人と小さなボートでユーフラテス川を渡り、トルコへ逃げた。
イブラヒム 山側に行けば政府軍がいて100パーセント捕まってしまう。だったらユーフラテス川を渡って東に行かなければなりませんが、橋にはスナイパーが待ち構えている。だから、ボートで川を渡ったんです。このときが一番、大変でしたね。生き延びられる可能性は50%くらい。でも、いつ死んでもおかしくない状況にずっといたので、恐怖心もありませんでした。
死の淵から抜け出すも、今度は生きる苦しみに直面
こうして、イブラヒムは死に包まれた世界から抜け出した。だが、苦しみはこれで終わらなかった。次に待っていたのは、“生きる苦しさ”だった。
イブラヒム 僕がトルコで求めたのは、まず足の治療。そして自立した生活。でも、トルコでは難民10人ぐらいが地下で身を寄せ合っていたため、ぐっすり眠れるような環境ではありませんでした。それに足の治療も満足のいくものではなくて……。もらった義足は、300m歩くごとにねじが外れ、ドライバーで締め直さなければならないし、抗生物質もお金とコネがないと手に入らない。感染症を患い、命が危ないときもありました。やはり絶望的だったのです。
こうした不安定な環境で希望が見えず、心が破壊されていく難民は多かった。しかし、イブラヒムには、強い精神力があった。
イブラヒム 「ヨーロッパに行って社会復帰するんだ」という気持ちがあったので、僕は精神的につぶれずに済みました。1000人くらいに話して、皆「(ヨーロッパで社会復帰は)無理だよ」と信じてくれなかったけど、「このままではダメだ」と判断し、怖かったけど密航業者と交渉し、ギリシャに行くことにしたんです。
それは、ふたたび命を賭した旅だった。エーゲ海を渡る小さな密航のゴムボートが目指したのは、ギリシャのサモス島。毎年、8000人もの難民が到達する一方、それ以上の人が海に沈んでいると噂されていた。
イブラヒム ボートに乗った人たちの顔には、恐怖が浮かんでいました。でも僕は、このときも、「トライして失敗しても、死んだら死んだで楽になる」と思っていたので、死ぬこと自体は怖くなかったんです。これは本心ですよ。
死と隣り合わせの航海だったが、幸いなことにイブラヒムは、生きてギリシャの地に降り立った。2014年2月27日。イブラヒムは、その日を決して忘れない。
イブラヒム 人生で一番よい日でした。だから、僕はこの日を「誕生日」と言っています。それまでは死んだも同然だったのに、息を吹き返した。新しい人生が始まったんです。
出会いに恵まれ、アテネで自立した生活を得る
以降は、これまで同様の苦しさがあった一方、よい出会いにも恵まれた。16日間の拘留のあと、ギリシャでの6ヵ月間の滞在が認められ、アテネへ向かった。お金はなかったが、障がいのあるイブラヒムに同情した難民が少しずつお金を出し合って、切符を買ってくれたのだ。
そのアテネでもいい出会いがあった。障がいと言葉の問題で仕事が見つからず、道に生えた草や果物でしのぐ。そんな情けなくなる路上生活を送っていた18日目、ある公園で身の上を尋ねてくれたシリア出身の男性と出会い、すべてが好転していった。
イブラヒム この頃のきつさにも形容しがたいものがあります。でも、そのシリア出身の男性が、「義足を履いている友人のギリシャ人にどうにかならないか聞いてみる」と言ってくれて、翌日にはもう、お医者さんに診てもらえることになったんです。
医師の名はアンゲロス・クロノプロスさん。イブラヒムの足の状態が相当悪いことを知ると、10日間、つきっきりで治療してくれただけでなく、自費で1万2000ユーロ(約155万円)の治療費まで負担してくれた。
イブラヒム 義足、杖なしで歩くための理学療法、感染症治療のための抗生物質の代金などです。本当にありがたかった。彼のことは、今でも兄のように慕っています。
治療がひと段落すると、イブラヒムを自宅に泊まらせ、通訳も務めてくれたシリア出身男性の家も出た。ギリシャ語ができなくても就業可能なカフェの清掃の仕事を見つけられたからだ。イブラヒムは、ようやく母国を出たときに求めた自立した生活と、完治した足を手に入れた。
スポーツが生きる力を与えてくれた
生活基盤が整うと、真っ先に思い出したのが、スポーツのことだった。
イブラヒム でも、私が難民で障がいがあることから、なかなか受け入れてくれる場所がなかったんです。探し回って、5月にようやく見つけたのが車いすバスケットボールのチーム。でも泳げるところは、ずっと見つからなくて、やっと受け入れ先を見つけたのは、翌2015年の10月でした。
このとき、イブラヒムがうれしかったのは、受け入れ先のプールがアテネオリンピックの競泳会場だったことだ。「夢の舞台で泳げる」と心は躍り、イブラヒムの生活は、水泳、車いすバスケットボール、カフェでの仕事が3本柱になっていった。
イブラヒム スポーツは、難民に認定され、ギリシャに留まることを許された僕が、社会に溶け込むための役割も果たしてくれました。スポーツがあったからこそ、僕は支えられ、生きていく力を得られたのです。
そして転機は訪れる。2016年、パラ水泳のギリシャ選手権で2つのメダルを獲得した。
イブラヒム 僕が難民なので、記録としては認められませんでしたが、この大会に出たことがリオパラリンピックの聖火ランナーに選ばれるきっかけになったんです。マスコミにこれまでの生きざまを取り上げてもらった僕は、「パラリンピックに出ることが夢です」と答えました。この言葉が難民選手団の関係者に届いたのか、そのわずか10日後、「君が難民選手団の一人に選ばれた」と連絡が来ました。信じられない気持ちでいっぱいでした。
難民選手団が、パラリンピックに送り出されたのは、2016年のリオ大会が初。開会式で旗手を務めたイブラヒムは、成績だけでなく不屈の精神を示した選手に与えられる「ファン・ヨンデ賞」にも輝いた。以来、多くを語りたがらない難民選手もいるなか、イブラヒムは自らの物語を語り始めるようになった。
イブラヒム 私の歩んだ道のりは、実際、苦しさに満ちています。だからこそ、僕のことを知って、難民や障がい者になった人に、「それでも人生は終わりではない、できることはたくさんある」と伝えたいのです。そして、多くの人に難民の苦しみを知ってもらい、難民支援の輪をつないでいきたいと思っています。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によれば、2022年5月、紛争や迫害で故郷を追われた人は1億人を超え、うち15%には障がいがあるという。シリア内戦はいまだ収まらず、ウクライナ危機も重なって、難民は増すばかりだ。だが、多くの死に直面してきたイブラヒムは、苦しみのない世界を目指し、勇気ある発信を続けている。
edited by TEAM A
interview by Yoshimi Suzuki
photo by Hiroaki Yoda