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【世界の超人】強く美しく輝く マルチアスリート、オクサナ・マスターズ
幼少期のつらい日々を
スポーツが癒してくれた
アメリカのパラリンピアン、オクサナ・マスターズは世界で最も多才な選手の一人だ。ボート、自転車、クロスカントリー、バイアスロンという4つの競技に挑戦し、夏冬両パラリンピックに出場、メダルも3個(銀1、銅2)を手にしている。
今は3年後の東京パラリンピックも視野に入れながら、1年後に迫ったピョンチャン冬季大会で、まだ手にできていない金メダルを狙っている。 本格的に競技としてボートに取り組んでから約10年。以来、ほとんど立ち止まることなく、アスリートとして自分を追い込む日々を重ねてきた。その原動力は、どこにあるのか。
「私は人と競うことが大好き。人生が終わるその日まで、自分の限界に挑戦し続ける毎日を送りたい。1日も欠かさずに。それがたぶん、今の私が思う、人生の目標。そして、できるなら、そんな私の姿を通して、『たとえ難しく思えても、好きなことに挑戦するチャンスや方法はきっとある』というメッセージを伝えられたらいいなと思っています」
そう願うのは、自身の数奇な人生に起因する。マスターズは1989年、ウクライナ西部の町に生まれる。先天的に腓骨がなく両脚の長さも異なり、手や足の指にも奇形があり、内臓にも一部、障がいが見られた。その原因は、3年前に出身地近くで発生したチェルノブイリ原発事故による放射線被害の影響だろうといわれている。
ともかく、体にいくつもの障がいを抱えたマスターズは、生後まもなくみなし子となり、孤児院で育つ。十分な食事は与えられず、身体的虐待を受けることもあり、つらい毎日だった。
餓死寸前だったある日、転機が訪れる。国際養子縁組制度を通してアメリカ人のゲイ・マスターズ氏と出会い、7歳で米国に移住。当時、栄養失調のため3歳児程度の体格だったマスターズの新たな人生が始まった。
渡米後まもなく、8歳で左脚を膝の上で切断する手術を受けた。そのとき、医師から右脚は残せると言われていたが、細いままの脚がしだいに上半身の成長に耐えられず、痛みだす。結局、その約4年後に右脚も切断することになる。13歳の少女には耐え難い苦しみだった。
傷心の彼女を救ったのが、2回目の切断手術を受ける直前に出会ったボートだった。
実は最初に中学校で紹介されたときは、「障がい者のボート? どうして私だけ、お友だちと違うことをしなくちゃいけないの?」と気が進まなかったそうだが、試しに練習会に参加してみると、「一瞬で恋に落ちました。自然のなかでボートを漕ぎ水上を自由に移動していたら、過去の嫌な思い出から解放されるような気分になれたんです。だから、もう一度ボートを漕ぎたいという思いが励みになりました」
右脚の手術後、長いリハビリ期間を経て退院すると、マスターズはすぐにボート場に出かけた。最初の頃は、「心の癒やし」を求め、ただ楽しくボートを漕いでいた。
当時、両脚切断による心の傷みとともに、封じ込めていた幼少期のつらい記憶が成長とともに蘇り、彼女をしばしば苦しめていた。無心でボートを漕ぐことが心のリハビリになった。「まだ子どもだった私にとって、感情を表現できる唯一の手段がスポーツだったのです」
ボートとの出会いで知った
競うことの面白さ
高校生になり、マスターズは競技としてのボートの魅力にも目覚めていく。
息が切れるほどにハードに追い込むと、何とも言えない心地よさを感じた。小さかった 体もいつしか成長し、力強くボートを漕ぐ彼女のセンスの良さは周囲の目にとまる。「パラリンピックを目指したら」とすすめられ、やる気に火がついた。
2012年には、元海兵隊員で職務中に両足を失ったロブ・ジョーンズとペアを組み、ロンドンパラリンピックのアメリカ代表に選ばれる。混合ダブルスカルTAクラスに出場し、銅メダルを手にした。
イギリスペアとの接戦を制しての接戦の末、イギリスペアをわずか0.21秒差で振り切って3位入賞。「競うこと」の面白さを知ったマスターズは、ますます競技にのめり込む。
スキーと出会ったのはその頃だ。たまたまボート大会の観戦に来ていたパラスキー代表コーチの目に止まり、その年の冬には初めて雪山へ。そり状のシットスキーをストックで漕ぐことは、オールで漕ぐボートの技術とよく似ていて、すぐにコツをつかんだ。
どちらも自然のなかのスポーツで、ボートで水中に落ちることとスキーで転んで雪まみれになることは彼女には同じことに思えた。「なんて楽しいの!」と一気に心をつかまれた。
春になりボート選手に戻ったマスターズは、再びジョーンズと組み、夏の終わりに韓国で行われた2013年の世界選手権に出場する。だが、背中を痛め4位に終わり、ケガも深刻で引退を余儀なくされた。落ち込むマスターズを救ったのは、スキーで冬のパラリンピック出場という新たな夢だった。
「スキーの魅力は、練習すればするほど上達して、しかも終わりがないところ。自分で追い込めば、技術的にも精神的にもどんどん成長できる。コースによって難しさは違うし、同じコースでも天候によって状況は刻々と変わる。そんな変化に立ち向かうことが楽しいんです」
2013年冬にはアメリカ代表の育成選手に選ばれ、ワールドカップにも参戦。急成長したマスターズは翌年、ソチ冬季パラリンピックの代表も射止め、夏冬パラリンピアンの夢を果たしたばかりか、クロスカントリーの12kmで銀、同5kmで銅のメダルまで獲得した。
立ち止まることなく
挑戦を続ける理由
ソチ大会後、ボートに代わる夏場のトレーニングとしてハンドサイクリングを始めると、新たな才能の扉がまた開く。わずかな数カ月の練習で、8月末のロード自転車世界選手権の代表に選ばれ、2種目で4位入賞。翌年の世界選手権では銅メダルまで手にし、2016年リオパラリンピックへ。僅差の4位で表彰台は逃したが、非凡さは存分に示した。
「(メダル獲得という)仕事がまだ終わっていないので、東京大会も目指します」
リオから戻ると、休む間もなくスキーヤーに転身。押す動作のハンドサイクルから、引く動作のスキーへの切り替えは簡単ではないが、2016-17シーズンは1年後に自身通算4度目のパラリンピックとなるピョンチャン大会を控えた重要なシーズンだった。
レースの駆け引きを磨くことと、技術的には滑らかに、かつ力強い滑りで、特にコース上の急な下り坂でも アグレッシブに攻めることを目標に据えた。
結果、2017年2月にドイツで行われた世界選手権ではクロスカントリー3種目全制覇、バイアスロンでも金、銅メダルを獲得。IPCワールドカップでも、クロスカントリーで総合3連覇を果たし、バイアスロンでも3位と自身初の表彰台に上った。
「リオのすぐ後で、自転車からスキーへの移行は大変でしたが、目標としていたことが全部できました。自信を深められたレースもあったし、まだ伸びしろもあるという手応えも感じた。来季につなげたいです」
彼女は忙しい練習の合間を見つけては、メディアの取材や講演などで自身の経験や競技の魅力を伝える活動も熱心にこなす。
「アスリートとして私は、女性のお手本になりたいんです。ファッションやアートの世界で活躍する女性は多いけれど、オリンピックやパラリンピックでは女性はとても少ない。そんなスポーツの世界だからこそ、私は美しくて強い女性として大成功したい。そうして、女性だって活躍できる。もしかしたら男性より強いかもしれない。そんなメッセージで、女性を勇気づけたいのです」
まだ27歳。これから何度、強さと美しさを備えた女性アスリート像を示せるだろう。まずは2018年のピョンチャンで頂点に立つ姿を見せるつもりだ。
text by Kyoko Hoshino
photo by X-1
Profile/プロフィール
name 名前 |
Okusana Masters オクサナ・マスターズ |
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国籍 | アメリカ |
生年月日 | 1989.06.19 |
競技名 | クロスカントリースキー |