車いすテニス国枝慎吾、笑顔の引退会見。「最高のテニス人生」の裏にあった“戦い”とは?
パラリンピックの車いすテニス男子シングルスで3つの金メダルを獲得するなど、数々の偉業を成し遂げた国枝慎吾。1月22日にSNSで現役引退を発表した“パラスポーツ界のヒーロー”が2月7日、引退会見を行った。約27年の競技人生に幕を下ろした国枝の言葉から、その功績を振り返る。
「最高のテニス人生」。達成感が引退を決意させた
ユニクロの有明本部で行われた引退会見には約200人の報道陣が集まった。国枝はスーツ姿で登場。会見冒頭にVTRが上映された後、ユニクロの柳井正会長兼社長が祝福の言葉を贈り、その後、国枝があいさつ。決断に至った経緯や現在の心境を語った。
「1月22日付で引退することになりました。東京パラリンピックが終わって、“引退”について、僕自身、ずっと考えていました。
昨年はグランドスラムのタイトルを3つ獲得して調子も良かったんですけど、最後に残されたタイトルであるウィンブルドンの優勝が決まった後、チームの皆で抱き合っていたんですけど、芝生のコートの上で、一番に出た言葉が『これで引退だな』だった。その後の全米オープンは年間グランドスラムがかかっていたので、そのままのモチベーションで行けたんですけど、全米が終わってから、『もう十分やりきったな』と(いう言葉が)ふとした瞬間に口癖のように出てしまっていた。『そのままテニスをしていいのかな』という気持ちになってしまって、これはそういうタイミングなんだなと決意をしました。
(2009年に)プロ転向してから長い間、所属スポンサーであるユニクロをはじめ、多くのスポンサーに支えていただいています。ありがとうございます。
日頃から一番身近で支えてくれている妻、テニスをするきっかけを与えてくれた母、天国で見守ってくれている父、今まで関わってくれたコーチ、トレーナー、マネージャー、車いすテニスの先輩方や関係者の皆様、本当に僕自身を支えてくださってありがとうございました。
最後になりましたが、応援してくださっているファンの皆様には『最高のテニス人生を送れた』というふうに言い切って、締めのあいさつとさせていただきたいと思います。本日はありがとうございました」
質疑応答の詳細は以下の通り(一部抜粋)。
一番の思い出は「集大成」の東京パラリンピック
――“一番の思い出”は?やはり東京パラリンピックでの金メダルです。アテネ、北京、ロンドン、リオ、東京と出てきましたが、それぞれが僕の中の転機でした。
「アテネのときは、引退しようと思って臨み、金メダルを獲ったことでテニス選手として活動することを決めました。2008年の北京ではそれをきっかけにプロに転向、2012年のロンドンではプロの選手としての証明をかけて(出場し)、2016年のリオは挫折を味わい、2021年の東京で金メダルいうところで僕の中ではピリオドだったのかなと思います。すべてのパラリンピックに思い出がありますけど、東京(大会開催)が決まった2013年からの8年越しの夢がかなった瞬間は、今でも写真を見ると震えるような感情になりますし、それくらい思いの詰まった金メダルだと思うので東京パラリンピックは一番の集大成になったなと思います」
――今後の活動のビジョンは?「現役中に引退後を考えてみたんですけど、答えが出なかったです。
引退発表から2週間が経ち、自分の中で何をしていきたいのか、ぼんやりと出てきたぐらい。今、それを言っちゃうと、それやんなきゃいけない感じもしちゃうし(笑)、そこはまだ心の中に秘めておきたいなと思いますけど。
現役生活で何と戦ってきたのかなと考えて、相手と戦う、自分と闘う、もう一つある意味、車いすテニスを社会的に認めさせたい、スポーツとしていかに見せるかってところにこだわってきたというところがあって。もともと車いすテニスの管轄は(障がい者の団体ではなく)国際テニス連盟です。そういう意味では、健常者と障がい者の垣根のないスポーツだと思います。テニスをする中で、それを知ってもらいたい思いも強くあったので、そういった活動はこの後も続いていくのかな、と」
「どのスポーツにもいえることかなと思うけれど、年々レベルが上がっている。僕自身も、今現在の自分の状態でプロ転向した自分と戦っても間違いなく勝てるだろうなと思えるくらい車いすテニスのレベルは年々上がってきていますし、今も成長中だと思います。
“世界一”を2006年から続けてきて、何が難しかったかなと思うと、2位とか3位のときは1位の人の背中を見て、1位に勝つためにどうしていけばいいのかを組み立てていくわけなんですけど、1位になった瞬間、誰の背中も見えなくなってしまう難しさがあって。でも、スポーツのレベルは上がっていくわけであり、自分自身が現状維持だと相対的には衰退していく状態になってしまう。1位にいても自分の中で課題を見つけていかに成長していくかが難しさでもあり、面白さでもあったかなと思う。
2016年から2023年まで、長いこと1位を続けられた理由は、現状に満足せず、『常に自分の中の課題を見つけ続ける難しさ』にチャレンジしたことが挙げられると思います」
後を託せる選手たちの存在
――日本の車いすテニス界はどうなっていく?「(1月の)全豪オープンでもドロー数が拡大した結果、日本人の選手も世界中で一番多い人数がグランドスラムで戦えるようになって、その筆頭の上地結衣選手、急成長中の小田凱人選手、他の選手も含めて日本の車いすテニスのレベルは相当高いと思います。その選手たちが、これからどうやってこのスポーツを発展させていくか僕自身も楽しみですし、また、日本では2019年からジャパンオープン(楽天オープン)で車いすの部門を創設していただいて、昨年は満員のお客さんの前でプレーできたっていうのも、僕の中では、車いすテニスが本当にスポーツとして受け入れられた瞬間でもあったなと感じるところがありました。
その『スポーツとして』という舞台にようやく上がってきたというところで、僕はもう40歳手前になっちゃっていたので。これが25歳ぐらいなら『これから楽しいぞ』っていうところかもしれませんが、でも、それを託せる人たちがいます。そういう人たちのサポートも、もちろんしていきたいし、そういった大会に自分自身も関わっていきたい気持ちもあります。どうやってこれから世界のライセンスが発展していくかというところも、ジャパンオープンがいい例になると思っています。
健常者のプロ大会に、車いすテニスの部をどんどん創っていただいて、そこでプレーする環境が一番、車いすテニスのプロモーションにもいいのかなと思っていて。そういった大会を世界各地で創っていくことも、もしかしたら僕が何か手伝えることかなと思っているので、そういったことを含めて関わっていけたらいいなと思います」
「今も(国枝が競技を始めるきっかけになった、)上地選手や小田選手がプロ転向して活躍しているところに、そのときの自分自身の言葉が実現したなと思える瞬間であり、もしかするとプロ転向したとき思っていた以上に、そういった足跡はくっきりと残せたのかなと思います。その選手以外にも、日本では若い車いす選手が増えています。その選手たちがどんどん海外にチャレンジしているので、自分がやってきたことが影響を与えることができたのかと思うと『やってきた意味があったな』と思える瞬間ですね」
――サポートしてくれた妻の愛さんへの思いは?「一番は、リオのあった2016年、(右ひじのケガや手術があり)僕自身、相当追い込まれていたとき、妻の存在はすごく大きかった。こうしてメディアの前では強気な発言や『金メダルを獲りたい』と言わなきゃいけない。どんな傷を負っていたとしても、そこで弱音を言ってしまうとプレーに出てしまうのではという思いもあって言えなくて。それを言えるのが妻だった。家に帰って『もう試合、間に合わないな』『もうプレーできないな』『引退かな』といった言葉を吐き出せる場所があるっていうのが、きっと僕の競技のすごく助けになったんじゃないかなと思います。
2017年からは妻も一緒に大会に帯同してくれました。テニス(選手)は1年間、世界各地を回るので孤独です。妻がいるだけで、ホテルに帰れば家のようなアットホームな雰囲気が流れて十分オンとオフが切り替えできるっていうところはすごく助けになりました」
最後まで大切にした「俺は最強だ」
――(授与が検討されている)国民栄誉賞について。「私にも先週の金曜日(2月3日)に連絡があって、検討しているとの話だった。車いすテニスが評価された、自分自身がやってきたことが最大限に評価されたということでは大変光栄に感じました」
――やり残したことは?「成績、タイトルは、本当にもうやり残したことはないです。昨年、ウィンブルドン(のタイトル)を取って本当にやり切ったと思える現役生活を送れたことは最高の幸せだったと思います。先ほど言った通り、『スポーツとして』というフィールドにようやく入り込んだところでもあったので、そこでもう少し僕が若かったらなと感じるところはあります」
――苦しいとき、奮い立たせた言葉は?「2016年に王者の看板が若手の選手にわたってしまった当時、『俺は最強だ』という言葉をラケットから外そうと思って悩みました。でも、外せなかった。それを外した瞬間にもう戻ってこないと感じたので、最後まで外すことはなかった。2006年から2023年までラケットに『俺は最強だ』という言葉をラケットに貼り続けて、テニスをしていたら何度も何度も弱気になることはありますし、そういった中でも『俺は最強だ』と自分自身、断言する。そうして弱気の虫を外に飛ばしていけたなと思う。これは、2006年から最後までやり切れたと思うことの一つです」
――(全豪オープンで準優勝した急成長中の若手)小田凱人選手について。もう一度、戦いたかった気持ちは?「もちろん、ないことはないが、それ以上に、自分自身が先に満足してしまったのが大きいですね」
――どういう形で引退を伝えたか?「(1月の)全豪でダブルス組む約束を破ってしまったのは申し訳ない気持ちでいっぱいでした。ちょうど彼がオーストラリアに出発する日に電話で話して。実は、昨年ウィンブルドン優勝後のロッカールームで『もう終わったわ』『これで』と凱人に言ってあって。『あのときに言ったけど、これ以上競技をやることはないかな』と伝え、彼自身にも『これから車いすテニスを引っ張っていってくれ』と伝えました」
――子どもたちにメッセージを。自信をつけるためには?「(自信をつけるための)メンタルトレーニングは1位になる前からやっていたが、それだけやっていれば1位になれるなら皆1位になれる(笑)。その裏には、1日に同じような練習をずっと繰り返し反復でやるといった積み重ねがあり、『俺は最強だ』を毎日言い続けている分、反復の練習のクオリティが上がってくるわけです。『こんな集中力で本当に俺は最強と言い切れるの?』と自分自身に問いながらの練習というのは、練習の質を上げることにつながったと思います。そうやって自分自身断言するトレーニングは、僕自身はすごく効果がありましたけど、その裏には積み重ねがあることを伝えたいです」
――飯塚国際車いすテニス大会への思いは?「飯塚国際は国内で唯一、トップ選手が集まる大会で、以前は四大大会のひとつでもありました。グランドスラムが健常者と一緒になってからは、スーパーシリーズという格付けで大会が行われるようになりましたが、国内でトップ選手が集まる大会はそこしかなかった。僕自身も、そこでのプレーというのは相当力を込めて戦い、そのなかで9回優勝でき、最後は天皇杯として優勝できたことに関してもすごく思い入れのある大会です。今年も伺うのを楽しみにしています」
“社会を変える”戦い
――車いすテニスを社会的に認めさせたいという話があった。競技生活を続ける中で一番の苦労は?「(2004年の)アテネパラリンピックのときは、まだまだ僕が金メダルを獲ってもスポーツ欄になかなか載らない時期がありました。それをどうにかしてスポーツとして扱ってもらいたい(と考えました)。車いすテニスをやっているとよく『車いすテニスをやって偉いね』って言われたこともあったんですけど、車いすでテニスをやっていることが偉いんじゃなくて、目が悪ければ眼鏡をかけるように、僕は足が悪いから車いすでスポーツをするしかない。『スポーツがしたい』って、皆さん思うわけじゃないですか。結局そこは、特別なことではないと思って。やっぱりアテネの頃は、まだまだスポーツとして扱われないな、福祉として社会的な意義があるものとしてすごく強くメディアを通して伝わっていたのかなと思って、これはやっぱり変えないと、自分がやってることが車いすテニスを通して、車いすテニスってこんなに面白い、予想以上にエキサイトするスポーツだという舞台に持っていかないと。パラリンピックも『共生社会の実現のために』といわれますけど、スポーツとして感動を与えられたり興奮させたりするものじゃないと、結局はそこにもつながっていかないんじゃないかなというふうに思ったので、まずはやっぱりスポーツとしてっていうところのこだわりは相当強く持ちながらプレーしていましたね。
相手との戦い、自分との闘い、そして『スポーツとして見られたい』という戦い。この3つが現役中は肩にのしかかっていたなと思う。東京パラリンピックで国枝は車いすテニス世界一だとかは知られていたと思うんですけど、どうやってどういうプレーをするかご存知なかったんじゃないかなと思って、東京が終わった後は、僕の中ではものすごく『スポーツとして』という手ごたえがあった出来事ではないかと思います。
昨年、なぜ調子が良かったのか考えると、今まで『スポーツとして、皆さんの目を変えたい』というところでプレッシャーを感じていたのが、1年間で一度も気負いを感じなかったんです。ようやく純粋にテニスができて、相手と向き合うことができたと自分の中で思うこともあって、そういう戦いをしていたらもう現役も最後の時期に到来したんだなという思いがあるので、これからの上地選手や小田選手などの若い選手には、本当に純粋にスポーツとしての土台ができたのかなと思うと、そういった環境を用意できてよかったと思います」
「11歳の頃、パラリンピックを知らなかった。なぜ車いすテニスを始めたかというと『SLAM DUNK』が流行っていて、バスケットボールブームで僕もバスケをやりたかったけど近くにチームがなくて、母の趣味はテニスだったので、無理やり連れられてというのが始まりだった。現代では、こういうスポーツがある、国枝(という選手)がいるとか、そういった情報が溢れているわけで、まったく時代は変わりました。皆さんがパラリンピックや車いすテニスを知っている。車いすテニスを始めてから本当に変わったなと思うところです」
記者会見を終えると、国枝は一礼してスロープで降壇。報道陣から大きな拍手が沸いた。
text by Asuka Senaga
photo by X-1