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車いすラグビー
ジャパンパラ車いすラグビーで全勝優勝! チームとともに進化する“レジェンド”島川慎一の存在感
日本代表が全勝優勝を遂げた「2023ジャパンパラ車いすラグビー競技大会」。2018年に世界一になって以降、主要大会で“万年3位”の日本代表は、パリ2024パラリンピック金メダルに向けて細かい連携プレーを磨いている。4日間の大会の中で、日本戦全7試合のコートで頼もしいプレーを見せたのが、パラリンピック5大会出場のハイポインター、島川慎一。車いすラグビー日本代表のすべてを知るレジェンドだ。
プレースタイルの変化と進化
日本代表における島川の役割は、ゲームの流れを変えること。スピードで相手をかき回し、年々重みを増すタックルで敵の体力を削っていく。
「スピードとタックルが自分の強み。ケビン(・オアー日本代表ヘッドコーチ)のやりたいラグビーが僕の強みに似ている」という島川は、“すべてをぶち壊す”強いメンタリティでコートに入る。
日本代表の柱として安定感のあるプレーを見せた島川は今大会、オフェンスで新しい武器を披露した。ロングパスだ。自陣の深い位置から前線にボールを展開し、前を走る味方選手が余裕を持ってトライする。相手にディフェンスの的を絞らせない、島川の新たな引き出しだ。
「パスについては、個人練習でやりこんでいる。僕自身、もともとパスが上手ではなかったので精度を上げたいと思って。その成果が少しでてきたのかな」
総当たり2回目のフランス戦では、自陣深くからのロングパスが何度も決まった。
「タイミングよくパスを流すことができた。(ラインを組む)橋本(勝也)とのタイミングも互いにわかるようになってきた」
そして、得意とするタックルも輝きを見せる。次回パラリンピック開催国・フランスと対戦した決勝では、得意技のタックルで立て続けに相手のファウルを誘った。
「まだまだ、ああいうプレー(狙いすましたタックル)ができる。テンションが上がった」
このプレーでターンオーバーを奪った日本代表は、フランスの最強ラインを崩してリードを広げ、今大会で最も苦戦した試合を制した。
「彼はキャリアの中で、今が一番いい」とオアーHC。チームを押し上げるリーダーとしても高く評価した。
衰え知らずの最年長
24歳でこの競技を始めた島川は、この1月に48歳になった。代表歴は22年。時を同じくして、51歳の岸光太郎(ロンドン・リオパラリンピック日本代表)が代表活動からの引退を表明し、ついにチーム内の最年長プレーヤーになった。
「最年長でもハードワークができる偉大な先輩」とは同じハイポインター池崎大輔の言葉だ。
当の本人は年齢ばかりが取り沙汰されるのが好きではない。会場で実況アナウンサーから「48歳」と紹介されるたびに苦笑いしつつ、「気持ちは10代なんでね(笑)」。
20歳の橋本勝也とは、「ライバルであり仲間」。この1年ほどは代表合宿以外でも一緒に練習することが増えた。連携が磨かれたこともあり、10月の世界選手権では出番が少なかった<橋本-島川-小川仁士–長谷川勇基>のラインは、エースの池透暢を休ませるラインとして今大会で重要な役割を果たした。
最年長だからこそ、若手には「なんでも遠慮せずに言ってくれ」と伝えているという。島川に憧れてこの競技を始めた小川も、最近では島川にポジションの取り方を指示するまでになった。
「とくに同じクラブチームの選手たちは、遠慮なく意見を言ってくれる。僕自身もやりやすい。互いに刺激し合って伸びていければいいなと思う」
視線の先は常に“世界”
選手たちから「シンさん」と慕われる島川は、日本代表の礎を築いた存在だ。2002年に日本が初めて世界選手権に出場した日の丸戦士であり、2004年に日本代表が初出場したアテネパラリンピックで「得点王」を獲得。当時、世界ランキング8位だった日本チームの世界での位置を上昇させるべく、単身本場アメリカへ渡ると、2005-06年シーズンに「フェニックス・ヒート」のメンバーとして全米選手権で優勝を果たし、アジア人として初めてアスリート・オブ・ザ・イヤーに輝いた。ちなみに、2006年に日本で公開されたドキュメンタリー映画『マーダーボール』には、日本チームの中心でガンを飛ばす島川の姿が記録されている。
国内でもカリスマ的存在で、2005年に自ら立ち上げたクラブチーム「BLITZ」は日本選手権最多の8度優勝。一時代を築き、日本選手が皆、ニュージーランド製の車いすに乗っていたのは島川が使用していたからといわれる。
華々しいキャリアを積み重ねてきた一方、2011年には試合中のアクシデントで指を切断するなど苦しい時期もあった。さらにはスポットライトを浴びる池崎の陰で試合に出場できない大会もあった。引退が頭をよぎったのは一度や二度ではないだろう。島川は「これ以上、悪い数字はないから」と「4」だった背番号も「13」に変更した。
転機になったのは、2017年。島川の世界戦デビュー時にアメリカ代表の監督だったオアーHCの就任だ。外国人監督を熱望していた島川は、名将の期待に応えようとトレーニング量を増やしていく。さらに、2020年の新型コロナ流行で代表合宿ができなくなったのをきっかけに、心を固めた。「自粛前は環境に甘えていた」。屋外で走り込みができなければルームランナーで走り、フィジカルは無人のジムに行って鍛えた。工夫をして個人練習に取り組むことで心身を鍛え、5大会目のパラリンピックとなる東京大会でもコートを縦横無尽に駆け抜けた。
「来年は49歳でもっと体がつらくなると思うけど……彼はその年代の選手の中でも別次元。パリは通過点として頑張って欲しい」と引退した岸。
島川はコロナ禍で減った試合を多く積みたいと考えており、昨秋に再び渡米。カナダのクラブチームの一員としてトーナメントに出場するなど、相変わらず意欲的だ。
ジャパンパラを終え、「まだミスもある。(ゲームをどう組み立てるか)判断を速めたいし、(勝敗に影響する)ミスをなくすためにコミュニケーションをしっかり取れるように(コートの)中で話していきたい」と語った島川。
今大会の決勝戦には観客1282人が足を運び、選手たちもその応援を力にした。今年6月には日本でパラリンピック予選が開催される。長く日本代表をけん引する“車いすラグビーのレジェンド”に、もっと大きな拍手が送られてもいいのではないだろうか。そして、その拍手は日本代表チームがパリに向かう原動力になるはずだ。
text by Asuka Senaga
photo by X-1