パトリック・アンダーソンとマセソン美季が語るインクルーシブ社会とは?

パトリック・アンダーソンとマセソン美季が語るインクルーシブ社会とは?
2018.11.09.FRI 公開

共生社会の実現を目指しているパラリンピック。スポーツの祭典でありながら、日本社会をインクルーシブな社会へと変革しうる大きな可能性を秘めている。東京2020パラリンピックまで2年を切ったいま、私たちは何を知り、考えるべきか。カナダにゆかりのある二人のパラリンピック金メダリストが語り合った(※)

現役車いすバスケットボールプレーヤーのパトリック・アンダーソン

パトリック・アンダーソン|車いすバスケットボール 金メダリスト
カナダ出身。9歳のときに交通事故で両ひざ下を切断。翌年、車いすバスケットボールに出会い、才能が開花。1997年に初のカナダ代表入りを果たすと、中心選手としてチームをけん引し、2000年シドニー、2004年アテネ、2012年ロンドンと3大会での金メダル、2008年北京での銀メダル獲得の原動力となった。北京大会後とロンドン大会後の2度、代表チームから離れたが、東京大会を目指し、みたび代表に復帰した。

マセソン美季|アイススレッジスピードレース 金メダリスト
東京出身。大学生のときに交通事故に遭い脊髄を損傷。アイススレッジスピードレースと出会い、1998年長野冬季大会で金メダル3個、銀メダル1個を獲得。その後、カナダ人のアイススレッジホッケー選手と結婚。2016年より日本財団パラリンピックサポートセンター 推進戦略部プロジェクトマネージャー。国際パラリンピック委員会(IPC)公認教材『I’m POSSIBLE』日本版の開発では中心的な役割を担い、IPC及びIOCの教育委員も務める。カナダ在住。

スポーツと再び出会うことで“自分”を取り戻した

ともに交通事故で車いす生活となったパトリック・アンダーソンとマセソン美季。最初はショックで気持ちも沈みがちだったというが、そこから救い出してくれたのがスポーツだった。

カナダに縁を持つふたりのパラリンピアンが語り合った

パトリック・アンダーソン(以下、アンダーソン) 私が車の事故に遭ったのは9歳のときのことです。それまではスポーツと音楽が大好きな子どもで、アイスホッケーとピアノに取り組んでいたんです。ところが事故で両足を切断し、アイスホッケーはあきらめざるを得ませんでした。また学校は、隣町にある車いすの受け入れが可能なハイスクールに転校しました。事故後、6週間ほどで通学し始めることにしたのですが、まだ義肢が完成しておらず、車いすで通うことになりました。ところが、車いす受け入れ可能な学校でも、校内の設備に限りがあり、自力で行けない場所もあったため、どうしても人の助けが必要でした。自分のことは自分でやりたいのにできないわけです。それがいやで、心の中で「ぼくにかまわないで。見たり話しかけたりしないで」と念じながら、できるだけ目立たないように過ごしていました。

それが車いすバスケットボールと出会うことで変わりました。すぐに人よりハイレベルなパフォーマンスができるようになり、周囲から一目置かれるようになったのです。それからは優秀な選手になりたいという一心で、情熱を傾けて競技に取り組みました。再びスポーツができることは大きな喜びでしたし、それまで下を向いてばかりいた顔を上げ、堂々と生きていくことにもつながりました。

教育を通じたパラリンピックムーブメントの推進に取り組むマセソン美季

マセソン美季(以下、マセソン) 私が車いすで生活するようになったのは、今からちょうど25年前のことです。当時、体育の教員を目指して大学で勉強に励んでいたのですが、交通事故で脊髄を損傷したり、頭蓋骨が陥没したりする大ケガを負いました。意識不明の重体から目が覚めて、足が動かなくなってしまったと分かったときはショックでした。でもそれは、歩けなくなることに対してではありませんでした。当時はパラリンピックや車いすでスポーツができることを知らなかったこともあり、もうスポーツができないんだという衝撃の方が大きかったです。それほど私の中でスポーツは大きな存在でした。
車いすに乗るようになると、周りの人たちが私を痛々しい目で見たり、腫れ物に触るような感じで接してきたり、ただそこにいるだけなのに「がんばっているね」と声をかけられたりすることが不快な違和感でした。車いすに座っているだけで私自身は何も変わっていないのにと、すごくいやでしたね。そんなときにある光景に出会いました。病院の体育館で車いすバスケットボールをしている人たちを見たんです。「わあ、すごい! 速い! かっこいい!」って思いました。そして、ハッと我に返りました。こういう障がい者も「あり」なんだ、私も以前のようにスポーツをしたら輝けるかもしれない。そう気づけたことをきっかけに、自分自身が変わっていったことを覚えています。

トークイベントには、平日にも関わらず多くの参加者が訪れた

パラリンピアンは「障がいのある、すばらしいアスリート」ではない

その後、アンダーソンとマセソンはともにパラリンピックに出場し活躍。しかし、日本とカナダでは、パラアスリートを取り巻く環境は大きく異なるようだ。

アンダーソン カナダでは、オリンピックもパラリンピックも同等に扱われています。同じように機会が与えられますし、それに伴い責任も発生します。評価基準も報奨金も対等です。競争の世界ですから、パラリンピアンもオリンピアンと同様に結果が重視されるわけです。そのおかげもあり、優秀なアスリートたちがメダル争いをするような活躍ができているのだと思います。

マセソン 私がアイススレッジスピードレースで出場した長野冬季パラリンピックは、日本のパラリンピック界にとって「元年」ともいうべき、記念すべき大会だったと思います。というのも、オリンピックとパラリンピック、双方の日本代表チームが初めて同じユニフォームを着たのです。
ところが当時、パラリンピックは一般の人にはもちろん、メディア関係者にさえほとんど知られていませんでした。そのため、取材対応の際は、まずどんなスポーツかというところから説明しなければなりませんでしたし、写真撮影の際は「車いすを写してもいいですか?」と私にとっては意味不明な質問をされることもありました。車いすに乗っている人をどう扱っていいのかわからない感じでしたし、そもそもアスリートという認識はされていない、といった状況だったのです。
そう考えると、いまは随分変わったなと思います。例えば学校に行きますと、すばらしい選手が来たと喜んでくれますし、車いすバスケットボールの試合を見たことがある、パラリンピックを知っている、なかには選手の名前を言えるという子どもたちがいるわけです。これが東京2020パラリンピックのインパクトということなんでしょうね。その一方で、いまだにパラアスリートに対して「どのように障がいを克服したのか」という角度から取材するメディア関係者がいるのも事実です。

実は、ミュージシャンとしても活動しているアンダーソン

アンダーソン カナダでは、車いすバスケットボールは障がい者とも健常者ともプレーする機会があるのですが、これは非常に重要です。というのも、私をはじめとしたパラリンピアンやパラアスリートは、「障がいのある、すばらしいアスリート」ではなく、「障がいがあろうとなかろうと、すばらしいアスリートなのだ」というメッセージを伝えられるからです。健常の子どもたちとプレーすることもありますが、やはり言葉よりメッセージがはっきりと伝わると感じます。日本でもこのような取り組みをもっとやっていけばいいのではないでしょうか。

また、私はミュージシャンでもありますが、音楽は障がいの有無とは関係なく競争できるのがいいなと思っています。事実、故レイ・チャールズもスティービー・ワンダーも、視覚に障がいがありましたが、すばらしいミュージシャンでした。彼らの音楽が、障がいのある人たちのためだけのものだったとしたら、世界中の人たちにとってとても残念なことですよね。ですから、障がいがあるからと制約を設けたりせず、お互いに才能を認め合うことは、インクルージョンを進めるうえで非常に大切だと思います。

トークイベントではアンダーソンによるミニライブのサプライズも

マセソン 私の場合、自分で自分に足かせをしていた時期がありました。カナダで仕事を探していたころの話です。体育教師の免状は持っていたのですが、日本では教員として採用してもらえませんでした。私自身、車いすだから仕方がないとあきらめてもいました。そこでカナダでは、全く異なる業種の仕事に就きました。ところが「教員免状を持っているんでしょう。あなたがやりたいことをしたら?」と背中を押してくれた方がいたんです。そのとき、「社会に受け入れる体制があれば、私も好きなことができる。環境が整っていれば、できないことはないんだ」と気づきました。

インクルージョンを進めるうえで、必要なこととは?

真の共生社会を実現するためには、何が必要か。それぞれの経験から指摘する。

アンダーソン 社会はもっと障がい者に歩み寄って、障がい者コミュニティの要望に応えられるようにしてほしいと思っています。その点、カナダの場合、脚一本で国の横断を試みた故テリー・フォックスや、車いすで世界一周したリック・ハンセンというアスリートがいて、世間に影響を与えうる模範的な存在となっています。また私たちの世代にも、活躍しているアスリートたちがいます。そうしたトップアスリートたちがパラリンピックなどの大舞台でメダル獲得といった結果を出し、注目を浴びることで、アクセシビリティ(アクセスのしやすさ)を向上させたり、障がい者権利のアドボカシー(擁護)が進み、社会全体の景観も整えていくことができるのではないかと思います。

マセソンは日本とカナダの違いについて語る

マセソン 私自身は変わらないのに、場所によって障がいの感じ方が全然違います。例えば、日本をはじめとしたアジアに来ると、移動のしにくさや周囲の人の態度、視線、言動などから私には障がいがあるのだと思い知らされることがしばしばあります。これはカナダではないことです。ということは、障がいは私にあるのではなく、社会がつくり出しているのではないかと思うんです。

以前、偏見とか差別がどこから生まれるのか調べたことがあるのですが、ある方から「教育ですよ」と言われ、教育者を目指していたものとしてはすごくショックでした。その経験から、多様性を認め合い、公平なものを作るための工夫がいっぱい詰まっているパラリンピックと教育とを融合させたら、世の中から差別や偏見をなくせるのではないか。学校でパラリンピック教育を受けた子どもたちがインクルーシブな考え方を持った大人に育ってくれたら、その子たちが提供するサービスやつくるものはこれまでと全く違うものになるのではないか。そう期待しながら、大きなパッションを胸に抱いて現在の仕事に取り組んでいます。

2020年までにあえて一つ変えたいことを挙げるとしたら、私は皆さんの行動や考え方と言いたいです。カナダでは「何か私にできることはありますか?」としばしば声をかけられるのですが、日本人は奥ゆかしいのか、失礼なことをしてはいけないと思っているのか、日本ではまったく声をかけられませんし、そもそも声をかけたがっていないように思います。そのためか、日本の人たちとの間に見えない壁があるようにも感じています。もちろん、建築物をはじめ多くのところでまだまだバリアが存在していて、それらを改善することも必要なのですが、それには時間もお金もかかります。でも、少しの知識や正しい理解があれば、行動や考え方は変えられます。日本人は何をするにもていねいで勉強熱心ですから、あとは行動が伴うようになるといいですよね。

この日は、『カントリー・ロード』など3曲を披露した

※10月17日、カナダ大使館にて開催された『インクルージョン、そしてその先:パラスポーツ選手の視点から』トークイベントより構成しました。

text by TEAM A
photo by X-1

パトリック・アンダーソンとマセソン美季が語るインクルーシブ社会とは?

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