甲子園からパラリンピックへ!? 野球出身アスリートに注目!

甲子園からパラリンピックへ!? 野球出身アスリートに注目!
2023.03.17.FRI 公開

日本が野球熱で盛り上がる中、パリ2024パラリンピック予選も近づいてきています。パリ本番でメダルを目指す、やり投げ(F46)の日本記録保持者・高橋峻也(たかはし・しゅんや)選手と、東京2020パラリンピック・車いすラグビーの銅メダルメンバー、中町俊耶(なかまち・しゅんや)選手は、元球児です。球児だったころの思い出は? 好きな野球選手は? ふたりのシュンヤに聞きました。

陸上競技のやり投げに転向した甲子園球児・高橋峻也

高校時代の活躍が目に留まり、パラ陸上にスカウトされた

高橋 峻也
1998年生まれ。トヨタ自動車所属。小2のとき、少年野球チームで野球を始め、中学時代にボーイズリーグのチームで活躍。堺高校3年の夏に県大会で優勝し、甲子園へ。大学からやり投げに転向した。好きな野球選手は、坂本勇人(巨人)。

鳥取の港町で育ったシュンヤは、少年野球チームの監督を務める父親にすすめられて野球を始めた。3歳のときに患った脊髄炎の影響で右腕に障がいが残る。そんなシュンヤのために、父は隻腕のメジャーリーガーとして有名なジム・アボットの写真を参考にして「グラブスイッチ」を研究。父とマンツーマンで特訓を重ね、左のグラブを瞬時に着けたり外したりする技術を身につけた。

高校時代は外野手だったが、本人にとって最も思い出深いのは、小学時代に勤めていたポジションのピッチャーだ。「最初からグローブを外した状態で投げてすぐグローブをつける。それがとにかく難しかった」とシュンヤは振り返る。主に内野手だった中学時代、硬式野球のスピード感にとまどうこともあったが、甲子園を目指して地元の県立高校に進学。硬式野球部に入部した。

そして、3年の夏。甲子園を決めた県大会の一場面を、シュンヤは鮮明に覚えている。
「僕はライトを守っていたんですが、あとひとつで勝利というツーアウトの場面でライトに打球が飛んできました。『捕れる!』と思ったのですが、そのまま打球は伸びてホームランに。結局、その後、レフトフライでゲームセットになったのですが、レフトの選手がボールを捕った瞬間、まるで時間が止まったような不思議な感覚になりました。すごく興奮して。みんなでマウンドに集まって喜び合った時間は、本当にいい思い出です」

バッティングには自信があったシュンヤ。守備固めで試合に出場することも少なくなかった。10番を背負っていたが、ベンチ入りを果たした甲子園では、出番に恵まれなかった。「もちろん、試合には出たかったです。片腕が使えない僕が全国大会に出ることで、他の障がいのある選手にも知ってもらえるんじゃないかと考えていました」

「野球とやり投げの共通点は、下半身の使い方と腕の振りの速さ」

それでも、甲子園に出場したことで、シュンヤの名は、パラ陸上競技に関わるスタッフの知れるところとなった。誘われるまま入学した日本福祉大学で陸上競技・やり投げ(F46)の日本代表選手に。世界パラ陸上競技選手権(ドバイ)で6位に入賞するなどの成績を残し、現在は、パリパラリンピック日本代表の有力候補として著しい成長を見せている。

「2021年に社会人になってから大阪、名古屋のドームなどに野球観戦に行くことも増え、昨秋には侍ジャパンの強化試合で東京ドームにも足を運びました。やはり野球は好きですね。僕の年代は、甲子園に出ていない山本由伸(オリックス)、牧秀悟 (DeNA)といった選手が活躍していてすごいなと思います。プロ野球では、同じ所属のトヨタ自動車からプロに行った選手たちや甲子園の開会式で会話を交わした藤嶋健人(中日)に注目していますね」

「昨年は日本記録を投げることができた。今年は世界選手権(パリ)でメダルを狙い、4位以上に与えられるパリパラリンピック内定をつかみたいです」

いつかパラスポーツの野球にもチャレンジしてみたいというシュンヤ。まずは、パラリンピックのやり投げで「高橋峻也」の名を世界に刻むべく、トレーニングに励んでいる。


野球で培ったレーザービームが武器! 車いすラグビー・中町俊耶

現在は「14」を背負っている中町だが、日本代表デビューした当時は小学時代の野球の背番号と同じ「24」をつけていた
中町 俊耶
1994年生まれ。コロプラ所属。小学1年のとき、5歳上の兄の影響で野球を始める。硬式野球は大宮東シニアを経て、本庄第一高校、共栄大学でプレー。大学1年時の事故で頚髄を損傷。その後、20歳で車いすラグビーのキャリアをスタートさせた。子どものころのヒーローは、松井秀喜。

埼玉県北本市の野球少年だったシュンヤ。甲子園を目指した本庄第一高校時代は、部員約90人の中で夏の県大会のメンバーに選ばれることはなく、レギュラー争いの厳しさを痛感した。それでも、みんなでひとつの目標に向かって積み上げるチームスポーツの醍醐味を感じ、大学でもピッチャーとして野球を続けようと白球を追った。

高校球児のバイブル『報知高校野球』で強豪校や選手の名をチェックし、『輝け甲子園の星』でその有名選手たちの素顔を知った。なかでも、同じ年齢の大谷翔平の活躍は目を見張るものがあった。数ページにわたっていたインタビュー記事をめくりながら、「ただただ、すごいなと思っていた」となつかしそうに振り返る。

パスの精度とレンジの広さが持ち味。「状況によってパスの種類を変えたり、全体を見渡しながらプレーしたりするときに野球経験が活かされます」

足は速いほうではなかったというシュンヤ。しなやかな体から繰り出される送球と打つときのフォームの美しさは周囲から褒められることもあった。日本代表が世界トップを争う車いすラグビーでも、野球で磨き上げたパスの引き出しや精度、コート全体を見渡す状況判断力が活かされている。

「同じ球技なので、通じるところはたくさんあります。たとえば、競技用車いすを使用する車いすラグビーでは、自分の体の状態やプレースタイルに合わせてシートを調整します。調整後も『もっといいポジションで座れるんじゃないか』と模索し続けるんですが、野球時代にも道具をいじるのが好きだったので、そういう試行錯誤を苦に感じたことはありません。グローブの紐を締め直したり、グローブを磨いたりする手入れは日常的に行っていましたので」

今でも野球は好きで、ワールドベースボールクラシックはテレビで観戦。2009年に侍ジャパンが連覇をした当時、中学生だったシュンヤは、みんなと一緒に学校で応援していたのをよく覚えている。「ちょうど野球に夢中だったとき。だから今、テレビ中継を見ても当時、胴上げ投手の活躍をしたダルビッシュ有にどうしても目が行ってしまいます」

好きな言葉は「頑張るときはいつも今」。学生時代、テレビで特集されていた野球選手が口にしていた言葉は、競技が変わった今でもシュンヤの支えになっている。

「しんどい練習で逃げ出したくなるとき、ふとこの言葉が降りてきます。『今やらないと絶対、先につながらない』と考えると、ハードな練習にも負けていられませんから」

クラブチーム「TOHOKU STORMERS」ではキャプテンを務める

車いすラグビーの若手を引っ張るサウスポー「中町俊耶」は、13年間の野球経験を武器に、パリでの金メダル獲得に向かって全力疾走を続ける。

text by Asuka Senaga
photo by X-1

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