走らなくても楽しい陸上の授業? 対馬に移住したプロが実践する「陸上を面白くする」指導法
2023年、野球ではWBC、ラグビーやバスケットボールでもワールドカップが行われ、いずれも日本チーム、日本人選手が大活躍。日本中が大いに盛り上がった。そんな中、陸上競技を同じように盛り上げたいと、オリンピック出場選手を指導したこともあるひとりの男性が、東京から対馬に移住して子どもたちに陸上の魅力を教えている。なぜ対馬なのか? その思いと意外な指導方法を伺った。
「スポーツを楽しむということがわからなかった」
長崎県の対馬市は人口約2万8000人の離島。その対馬に東京から移住して、県立対馬高校陸上部のコーチをしているのが、林田章紀さんだ。
林田さんは大学時代に十種競技の選手として4年連続で日本選手権に出場。卒業後も実業団チームで指導にあたり、2016年のリオデジャネイロオリンピック出場選手の指導をするなど第一線で活躍してきた。そんな林田さんは、対馬でもさぞかし専門的なことを教えているのかと思いきや、実はそうではないそうだ。たとえば2023年の9月に行われたイベント「陸上競技で遊ぼう!」のテーマは「走らんでも楽しい陸上」。陸上競技なのに走らないとは、どういうことなのだろうか? そう尋ねると林田さんは「スポーツが楽しいと思ったことありますか?」と反対に質問を返してきた。
「よくスポーツを楽しむと言いますが、僕にはその感覚がよく分からなかったんです。僕がやってきたスポーツは一番になることを目指してやるもの、競技志向が強かったので、なかなか自分の中で楽しむという言葉とスポーツがリンクしなかったんです」(林田さん、以下同)
足りないのは「陸上を面白がる」人材
現役選手を引退し、実業団で指導者になってからも「スポーツが楽しいという人は、どこかチャラチャラしているように見えた」という。しかしある時、林田さんは日本の陸上競技はオリンピックや世界大会以外の普段の競技大会では観客も少なく、盛り上がりに欠けているということに気づいた。プロスポーツは観客が多く盛り上がっているのになぜ? プロスポーツとアマチュアスポーツの違いはどこにあるのか? その違いを知るために、林田さんは、国内外の数多くのスポーツの大会を見に行ったり、ボランティアとして参加した。
「スポーツ大会だけじゃなくてエンタメ系のイベントの仕事の手伝いもやりながら、いろんなスポーツを見ていくうちに、陸上界には陸上をもっと面白がる人材が不足していると気付いたんです。2021年の終わり頃から『オトナのタイムトライアル(OTT)』という団体のイベントに毎月のようにボランティアで参加していました。そこではタイムを出すことよりもイベントを楽しくするということが重視されていて、毎回テーマを変えて参加者が楽しめるような場を作っていました。そこで僕は受付や選手の誘導など、いろんなボランティアを体験して、こういうふうにすれば陸上の大会でも、参加する人だけでなく、参加しないけれどその場にいる人も楽しめるんだというのが分かってきたんです」
陸上で対馬の人口減少に歯止めを
いろんなスポーツ大会やイベントで培った経験を活かし、陸上を盛り上げたい。そんな風に考えるようになった矢先、高校時代の先輩が住んでいた対馬を訪れ、そこで対馬市が人口減少対策の一環として「スポーツ指導者招聘事業」があることを知った。林田さんは「僕でもできますか?」と迷わず手をあげ、2023年4月、同事業の第一号指導者として対馬に移り住むことになったのだ。
「スポーツ指導者招聘事業」は対馬の人口減少問題対策の一環だった。人口減少の原因のひとつは進学。なんと島の中学生の3人に1人が島外の高校に進学してしまうという。その中でもスポーツをやる子どもの場合、指導者や環境が整った本土の高校を選択することから、島内の高校でスポーツを続けたいと思ってもらえるような環境作りをしようというわけだ。
「走る=辛い」陸上はネガティブなイメージを持ちやすい?
しかし、日本では校則違反をすると校庭10周などと走ることが罰とされたり、学校のマラソン大会などで強制的に走らされ苦しい思いをするなど、走ることにネガティブな感情を持っている子どもが少なくない。
「僕自身が子どもの頃は、記録を伸ばすことを追求していたので苦になりませんでしたが、普通は走ることは辛い、苦しいというイメージがあります。まして陸上は学校体育の延長にありますが、少子化が進む今の日本で競技人口を増やすのも限界があります」
また、林田さんが対馬にきて最初に開催した非公認の記録会『対馬のタイムトライアル』で、参加した小学生は「タイムを人に評価されるのが嫌だ」「早く走れないと怒られるから怖い」と、タイムトライアルという言葉自体にもネガティブなイメージを持っていたと言っていたそうだ。
「こういうイメージがある限りは、いくら競技会を開いても参加者は増えないですし、スタンドはガラガラ、陸上は盛り上がらないですよね」
「盛り上げる」ことを目的にした陸上の授業を実施
そこで林田さんは高校生だけでなく、小中学生に向けて出前授業を行い陸上の楽しさを小さいうちから教え、競技者だけでなく競技に関わる人口を増やすということに取り組んでいる。たとえば、ある小学校での出前授業で行ったリレーでは、全員が走るのではなく「スターターをやりたい人は?」「選手を応援したい人は?」と、走ること以外の関わり方も提案した。スターターを任された子どもには、ちょっと変わった音のするスターターを渡して楽しんでもらった。応援する子どもたちには、リレーで走る友達の名前や「がんばれ!」など応援のフレーズを色つきの画用紙に書いてもらって準備。リレー中も子どもたちのテンションがあがるような音楽をかけ、林田さんがマイクを使ってリレーを実況するなど、かつてエンタメのイベントボランティアで経験したことを活かした。
「イベントの仕事を手伝っていた頃、音楽の力は大きいということを実感したので、僕が子どもたちに教えるときは常にBGMをかけるようにしています。音楽ひとつで子どもたちの様子が変わります。たとえば、中学時代は陸上部に所属しているものの練習が嫌いだからとさぼってばかりいた子が、高校に入ってからは練習が楽しいといって、陸上部の練習に毎日来てくれるといったこともありました」
音楽は林田さんがセレクトすることもあれば、「この曲を聞くと頑張れる」などといった子どもたちのリクエストにも対応する。音質にもこだわってスピーカーを購入したそうだ。こうした経緯から、件の「走らんでも楽しい陸上」をテーマにしたイベントも行われた。競い合うことではなく、体を動かす楽しさ、友だちと遊ぶ楽しさ、陸上を観る楽しさ、イベントを作る楽しさなど、それぞれが陸上の楽しみを見つけ、陸上に関わってもらうことが目的だった。
陸上部発、野球部の壮行会が大盛況
こうした活動をするようになって、早くも子どもたちの間に自主的にスポーツを楽しむ空気が生まれたという。それを実感するエピソードがあったそうだ。
「対馬には上対馬・対馬・壱岐商と、3つの県立高校があり、2023年度秋季の九州地区高等学校野球長崎県大会には、3校連合のチームで参加し、ベスト8にまで勝ち進んだんです。その時、陸上部の子がきて、ベスト4進出をかけた試合まで1週間あるので、その間に壮行会をやりたいと相談されました。僕が普段イベントなどで音響などを活用していることから、それを使った壮行会をやりたいと言うんです」
それで実現したのが、学校の中庭で音楽をかけ、陸上部がMCになって野球部員にインタビューをし、それを他の生徒たちが屋上から見るという壮行会。
「テレビ番組の『学校へいこう!』じゃないですが、学校全体で盛り上がりました。たった10分でしたが、生徒たちが自主的に考え、参加して、学校中が一体となった、とてもいい壮行会でした。そういった一体感をつくることが面白いですし、スポーツを盛り上げるんじゃないかと思います」
夢は「走る部員30人」「走らない部員70人」の陸上部
林田さんが対馬に指導者として招聘された理由は、子どもたちを本土ではなく島の高校に進学させることだが、それを強制したくはないと言う。
「もちろん島内の高校への進学率を上げるとか、スポーツで地域を盛り上げるといった目的は果たしたいですが『島に残ってほしい』というお願いのようなことは絶対にしたくないんです。そうではなく、残りたいと思ってもらえるような魅力づくりをしなきゃいけないと思っています。まずは3年間で陸上部員を100人にするというのが目標です。でも実際に走る人は3割ぐらいでいい。もっと極端に言えば、陸上部員じゃなくて、陸上サークルのようなものでもいい。週に1回でも陸上部の練習に参加して、しかも参加しても走らなくてもいい。例えば音楽を流す、動画や写真の撮影、SNSにアップするなどして盛り上げたり、拡散したりする担当。あとはグラウンドをいい感じにデザインするとか、陸上を取り巻く環境を支えるとか。そういった陸上に関わる人が70人くらいで、実際に走る部員30人を支えるような団体を作ったら、面白いんじゃないかと思うんです」
林田さんが対馬に移住してまだ半年あまりだが、すでに林田さんと一緒にスポーツを楽しみたいという人は子どもたちだけでなく、保護者や他の部活動の部員や指導者など確実に増えている。陸上部100人の夢はあっという間に実現しそうだ。
昔から楽しそうにしている人の周りには、自然に人が集まってくると言うが、今の林田さんがまさにそうだと言えそうだ。取材中、林田さんは「対馬に来てからは毎日がめちゃくちゃ楽しいです」と笑った。その自ら楽しむ姿勢こそが、人をひきつけ島の人々が陸上に興味を持つきっかけになっていくのかもしれない。いずれ、島外から「対馬で陸上をやりたい」という子どもたちが移住してくる日がくるかもしれない。そんな希望を抱いてしまうような魅力が、林田さんのまわりには溢れていた。
text by Kaori Hamanaka(Parasapo Lab)
写真提供:株式会社ONE COACH