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ゴールボール
ゴールボールで頂点を目指す佐野優人。そのルーツは野球、そして元車いすラグビー選手の父
この夏、パリで開幕するパラリンピックの出場権を初めて自力で掴んだゴールボール男子日本代表。攻守に欠かせない中心選手の一人、佐野優人には、野球に没頭していた過去がある。そんな佐野はどのようにしてゴールボールに出会ったのか。ルーツを探ると、車いすラグビー選手だった父の存在が見えてきた。
ポジションはライト。影響を受けた人物は、歌手の平原綾香。2023年4月から日本国土開発所属。
父の“優勝”の年に誕生
24年前、埼玉県狭山市で生まれた男の子は、「優人」と名付けられた。「優しい人になって」という母の願い。そして、車いすツインバスケットボール選手としてクラブチーム日本一になった父・健一は、そのときの興奮を長男の名前に込めたという。
「優勝の“優”を息子の名前に入れたかったんです。19歳のときにバイク事故で頸椎を損傷した僕は、リハビリ中に車いすラグビーという競技を知り、当時、国立障害者リハビリテーションセンターの学院生だった妻とも車いすラグビーの試合会場で出会いました。車いすラグビーでは、全米最強チームのシャープ・シャドーと対戦したり、いろんな国に赴いて交流戦をしたりして、体格差をまざまざと思い知らされました。それで、頚髄損傷の選手が国内で活躍できるツインバスケットのほうに気持ちが移っていった。優人が生まれた頃が僕の全盛期かな。なつかしいですね」
優人には、父が練習や試合でプレーをしていた記憶がない。ただ、おぼろげながらに大会会場の体育館や練習中に車いすで遊んだ思い出はある。「チームの人たちに可愛がってもらいました」と優人。「自分がパラリンピックでトップを目指すようになって、父ちゃんがどんなレベルでプレーしていたのか、ちょっと気になっています」
父と同様に、体を動かすことが好きだった優人は、水泳、テニス、フットサル、空手……いろいろなスポーツを体験した後、小学2年生から野球を始めた。チームでプレーする楽しさに目覚めたのが、まさにこの頃だった。
「野球は、サッカーのようにうまい人だけがボールを扱うのではなく、全員に打順が回る。勝負の面白さもありながら、みんなでワイワイやるのが楽しかった。当時からチームスポーツが好きだったのだと思います」
野球にのめり込み、中学はリトルシニアでプレー。高校では甲子園出場という青写真を描いていた。だが、中学2年生の冬、突然「野球ができなくなった」。
「約3ヵ月で急激に視力が落ちたんです。原因がわからなかったこともあって、すごく落ち込みました。キャッチボールでボールを落としてしまったところから始まり、翌週の練習では打席でボールをミートすることができなくなり、その翌々週には代走で試合に出たもののけん制でアウト。中学生ながらに仲間に迷惑はかけられないと、メンバーから外してもらえるよう監督に伝えました」
健一さんも当時のことをよく覚えている。
「治療方法を求めて眼科をいくつも受診しました。僕も野球をやらせてあげたいと思っていたし、本人も野球ができないことでいらいらしたり、落ち込んだりして大変でした。でも、自分がそうだったようにスポーツさえやっていれば、いつかは道が開ける。そう考えて、家族みんなで視覚障がい者スポーツを調べました。陸上競技やブラインドサッカー、それにクライミングも勧めましたが、やっぱり野球をしたい優人には響かなくて……。そりゃそうですよね」
転機は中学3年生の夏。難病であるレーベル病だと診断された優人はある日、当時通っていた病院の医師に勧められてゴールボールを見に行った。「佐野君と同じように野球をやっていた選手もいるんだよ」という医師の言葉が背中を押した。それが、野球にも共通する魅力が詰まったゴールボールとの出会いになった。かくして、優人の新しい挑戦がスタートした。
その後、国際大会を経て、自国開催の東京パラリンピックに初出場。さらに高い目標を定めた男子日本代表は、2023年8月にイギリスのバーミンガムで開催された「バーミンガム2023IBSAワールドゲームズ」で優勝し、日本男子のゴールボール史上初めて自力でパラリンピックの出場権を獲得した。
日本に帰国すると、いつものように父が空港に車で迎えに来てくれていた。ライブ配信で息子の活躍を見ていた父は車中で聞く。
「あのゴールはすごかったね。プレーしていてどうだったの?」
選手たちを乗せた父の車の中は、何時にも増して試合の話でもちきりだった。
優人は振り返る。
「(ゴールデンゴール方式の延長戦で劇的に勝利した)準決勝では、最後に得点を決めることができ、チームに貢献できた。ゴールボールをやっていて初めて自分の得点で試合を終えることができたのは自分としても嬉しかったし、家族もすごく喜んでくれていました」
ゴールボールでさらなる高みへ
「病気を発症するまで、車いすの父ちゃんに障がいがあるなんて感じたことはなかった」と優人は言う。
「当時、『大丈夫。つらかったら何でも言ってね』と支えてもらったのと同時に、『時間が乗り越えさせてくれたよ』などの体験談を話してくれて。足の動かない父ちゃんに言われたからこそ、立ち直りが早かったのだと思います」
2021年の東京大会。優人は、家族に勇姿を見せたいという気持ちでパラリンピックの舞台を目指し、日本代表になった。だが、2度目のパリ大会は違う。純粋に、パラリンピックで勝ちたい。「ベストなプレーをして勝利に貢献できれば、周囲はいろいろなものを感じ取ってくれるはずだから」。優人はもう一段上のステージに上がろうとしているのだ。
「私は交通事故。優人は難病。偶然とはいえ、家族のうち2人も障がいがあって複雑ですが、息子は国際大会に出場し、父を越えていきました」
健一さんは照れくさそうに笑った。
「子どもの頃は野球の大会、今はゴールボールを応援する日々。優人のおかげで楽しませてもらっています。だから、どこへでも車を出しますよ」とほほ笑む父は、取材中にこんな話をしてくれた。
「小学2年生のとき、よく父子でキャッチボールをしていましたが、優人のレベルが上がるにつれてすぐに相手ができなくなりました。優人はもっとキャッチボールをしたかったのではないかな……」
それを本人に伝えると「心残りとか、まったくありません。僕が父ちゃんの足や車いすにボールを当てちゃって『ごめん』と言いながら、2人でゲラゲラ笑いながらキャッチボールしていました。楽しかった思い出です」
金色に染めた髪は金メダルをイメージするためだ。パラアスリートだった父の期待を背に、佐野優人は優勝を目指す。
text by Asuka Senaga
photo provided by Sano himself