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車いすラグビー
車いすラグビー・池崎大輔は東京パラ延期でも猪突猛進!「目指すのは金メダルだけ」
ついに新競技日程が発表された東京2020パラリンピックで、金メダルが期待されている車いすラグビー日本代表。新型コロナウイルス世界的流行の影響で大会は延期になったが、「自国開催のムードをもう1年長く味わえるし、競技をいろいろな人に知ってもらえるチャンス」と前向きだ。ロンドン、リオと2度パラリンピックを経験したエース・池崎大輔の競技にかける思いに迫った。
世界に誇るスピードスターが誕生するまで
茶髪にあご髭、スポーツサングラスの奥の鋭い眼光。いかにもな強面にふさわしく、闘志あふれるプレーで車いすラグビー日本代表をけん引する池崎大輔。しかし、子ども時代は闘争心とは無縁だったと振り返る。
池崎大輔(以下、池崎) 小中学生の頃は、運動会や球技大会が嫌いでした。5~6歳で進行性の末梢神経障害の難病「シャルコー・マリー・トゥース病」を発症して以来、変形した足を矯正するため安全靴のような長靴を履いていたんです。これでは走ってもどうせビリになるわけですから、闘争心も湧きませんでした。 とはいえ、もともと体を動かすことは好きで、休み時間や体育の時間に友だちとスポーツは楽しんでいました。野球、サッカー、バドミントン、卓球、バスケ……。なんでもやりました。野球をしていた父親譲りなのか、どれもそれなりにうまかったですよ。
手術を繰り返し受けたものの完治せず、岩見沢高等養護学校に進学。そこで車いすバスケットボールに出会う。
池崎 病気の進行に伴いスポーツが遠いものになりつつあった高校2年のとき、車いすバスケットボールを知りました。障がいがあっても、足が動かなくても、車いすに乗ればバスケができる。しかも、車いすバスケットボールはパラスポーツの中でも花形競技で、がんばれば日本代表になったり、世界の舞台で戦えたりするチャンスもある。それまでとは違う新しい世界を発見してうれしかったですし、そこに希望を感じて、すぐに飛び込みました。
ところが、手首の力が弱く左右の握力がゼロの池崎にとって、車いすバスケットは想像以上にハードなスポーツだった。
池崎 仲間に支えてもらいながら15年続けましたが、年々上がっていく競技のレベルについていけませんでした。日本代表入りの可能性も、モチベーションも低かった。モテなかったですしね(笑)。あの頃の僕は、「手が悪いからできないよ」と、手の障がいを言い訳にして、競技から逃げていました。
そんな頃、地元の車いすラグビーチームから勧誘の声がかかる。
池崎 どんな競技か知らなかったため体験に行ったのですが、驚きました。競技用車いすは傷だらけだし、手にはグローブをはめていて、ボールは楕円ではなく丸かった。最初は訳が分かりませんでしたが、説明を聞き、納得しました。車いすの傷はタックルするからだし、握力を補うためにグローブをはめてそこに滑り止め用の松やにを付ける。ボールは障がいのある手でも扱いやすいよう、バレーボールをもとに開発された専用球。四肢に障がいのあるプレーヤーのためにすごく工夫された競技なのだと感心しました。
一方で、車いすスポーツで唯一、コンタクトOKという点には、最初、抵抗を感じました。しかし、実際に競技用車いすに乗って、試しにコツンコツンとほかの車いすに当たってみたら、車いすが体を守ってくれるとわかった。それならばと、思いっきりドンとタックルしてみたら、相手がつらそうな表情で吹っ飛んだんです。それを見たら、気持ちよくなっちゃって。これだ!と思い、転向を決めました。かっこよく言えば、あのタックルの衝撃音が、僕の車いすラグビー人生のスタートを告げるゴングだったのだと思います。
スポーツって、いつ、どこで、どう才能が開花するか分からないじゃないですか。だからこそ、一度きりの人生、好きなスポーツでどこまで行けるか試してみたかったのかもしれません。
チーム全員で喜ぶ姿をイメージして
「体一つで戦いを挑む男らしいスポーツで、自分の性に合っている」と車いすラグビーにのめり込んだ池崎は、車いすバスケットボール時代に培ったチェアスキルを武器にみるみる頭角を現し、早々に日本代表入り。2010年のカナダカップで初めて世界の舞台を経験し、2012年のロンドンパラリンピック、2016年のリオパラリンピックに出場した。
池崎 ロンドンパラリンピックは競技を始めて2年、自分なりに濃い時間を過ごしてたどり着いた舞台でしたが、結果は4位。世界は甘くないと痛感しました。そこから改めて競技に打ち込める環境を整えて自分を高め、連盟、スポンサー、ファンといった多くの方の思いを背負ってリオパラリンピックに挑みました。4年間って、365日×4じゃないですか。それだけの時間をかけたわけですが、今度は3位の銅メダル。悔しかったです。もちろん、日本の車いすラグビー界にとっては歴史的な快挙だったわけで、それはうれしかったし、メダルがお土産代わりにはなったかなとは思いましたが、それだけ。あれで満足したメンバーは一人もいなかったと思います。講演会などで銅メダルをお見せすると喜んでいただけるのですが、僕にとっては負けた証を首からぶら下げているようなものです。
そこから4年後の東京パラリンピックへ向け、再スタートを切った。
池崎 リオパラリンピックまでの4年間以上の努力をしなければならないというのは、なかなかしんどいなと思いました。でも、東京パラリンピックを目指す以上は金メダルを狙うし、そのためにはやるしかないですよね。
日本代表チームとしては、リオ後にヘッドコーチに就任したケビン・オアーが多くの知識や情報を与えてくれたおかげで確実に成長しています。ディフェンダーのバリエーション、オフェンスの形、ラインの強化……。攻守のバリエーションがすごく多彩になりました。今のチームだったら、リオで優勝できたのではないかと思うほどです。実際に2018年の世界選手権では優勝しましたが、やり方次第でまだまだ強くなれるし、ケビンも日本は金メダルを獲れる力があると言ってくれています。それを東京パラリンピックで、しっかり証明したいですね。
僕個人としても、リオ以前と以後ではやり方を変えました。一番大きな違いは、チーム力を上げるため、意識してたくさんのメンバーたちと一緒に時間を過ごして、積極的にコミュニケーションを図るようにしています。おかげで、相手の考えが理解できるようになり、それがプレーにも表れるようになってきました。いい傾向です。
東京パラリンピックは約1年延期されましたが、これからさらにチームメイトたちと、いろいろなことを共有していきたい。それが必ずや、結果につながると思っています。
同時に、チームスポーツの基本は1対1であり、個人のパフォーマンスでチームの戦い方も変わるので、これまで同様、フィジカルも鍛え続けています。さらに緊張感のある試合を経験することで、自分を成長させていかなければなりません。
そう考えると、あと何回試合があり、あと何日合宿ができて、どれだけの練習ができるのか。これって、命も同じですよね。80歳、100歳まで生きるとして、あと何万時間あるのだろう。競技人生となると、もっと短いわけです。限られた時間の中でどれだけの結果を出し、どんな人生を歩みたいか。そうと考えると、1秒たりとも時間を無駄にできません。
東京パラリンピックでは、金メダルしかいらない。そう思っていますが、勝負事だから何が起こるかわかりません。だからこそ、チームとしての精度と、個人としての成長をもっと高めて臨まなければならない。2020年8月に予定されていた東京パラリンピックは目前になって延期が決まったわけですが、その時点で日本代表の実力は金メダルを獲るところまで到達していなかったと思っています。まだまだやれることはあるので、延期は「より金メダルの可能性を高めるためのチャンス」と捉えています。
常にイメージしているのは、東京パラリンピックで悲願の優勝を果たし、チーム全員で喜ぶ姿だという。その瞬間を今度こそ現実のものとすべく、池崎大輔は闘志をむき出しにして戦い続ける。
text by TEAM A
photo by X-1