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車いすテニス
車いすテニス・全豪オープン、東京へと続く上地結衣とライバルの物語
ボールを追いながらも届かなかった、彼女の顔は、笑っていた――。
「あ~、もう!」
「なんでそっち?」
自身にかける言葉は手厳しいが、その表情は、生き生きと輝いている。
全豪オープン、女子車いす部門の決勝戦。
宿命のライバル、ディーデ・デフロート(オランダ)と戦う上地結衣は、右手で巧みに車いすを操りコートを縦横に駆け、地面ギリギリのボールも伸ばした左手のラケットで、巧みにすくい上げ打ち返す。その球種やコースも、ライン際に測ったようにスライスを流し込んだかと思えば、スピンの効いたショットを鋭角に撃ち込むなど、実に豊富。
対するデフロートは、鍛え上げられた上体を地面につくほど前傾させてボールを打ち、高くバウンドするボールは、フォアに回り込み力強く叩き込む。
両者の息遣いと、チェアが疾走する金属音が、メルボルンの真夏の太陽に照らされた青いコート上で激しく響く。一瞬でも気を抜けばウイナーを奪われ、落胆すればたちまち試合の流れを持っていかれる……そのような緊張感で、スタジアムの空気は張り詰めていた。
上地の前に立ちはだかる宿命のライバル
メルボルン市内に新型コロナウイルスの感染者が出たため、街はロックダウンに入り、大会会場にも観客の姿はない。それでも試合の熱気と質の高さに惹きつけられるように、コートサイドには選手や関係者たちが、次々に足を運んだ。
全豪オープンを迎えた時点で、両者の対戦成績は15勝18敗で上地が僅かに後塵を拝する。ただ一週間前に行なわれた前哨戦では、上地がストレートで勝利していた。それら7年間の戦いの集積を分析し、交錯する足跡から未来を予測しながら、上地は34度目となるデフロートとの対戦をメルボルンで迎えていた。
「ディーデは、バックハンドの方が凄く安定している。ラリーしたいならバック、決めにいくのはフォアというのは、ここ最近の対戦でも分かっていたので、そのイメージも頭に入れていました」
そのような相手のプレー像が、上地にはシミュレートできていたという。
確かに、いかに上地のチェア捌きが突出しているとはいえ、相手の強打を何度も拾う守備力は予測なくしてあり得ない。ただ上地に多少の誤算があったとすれば、この日のデフロートは「前哨戦のときと違って、すごく我慢してラリーしていた」ことだった。そのプレーにやや戸惑ったか、第1セットはデフロートに奪われる。だが第2セットに入ると、前に出る積極性や浅いショットを用いる戦略性で、上地が相手のしぶとさを揺さぶった。
一進一退の攻防の末、第2セットはタイブレークを取った上地の手に。そして第3セットも、肩をぶつけ並走するかのような、抜きつ抜かれつの死闘が続く。
冒頭に記したような笑顔が上地に多く見られたのは、質の高いショットや動きで、互いが互いのプレーを研磨していくかのような、第2セットの中盤あたりからだった。
「イメージがありながらも、彼女のパワーに押されてやるべきことが出来なかったり、自分のポジショニングが良くなかったりでポイントを取られる場面がありました。自分のイメージから外れている点は、ほとんどなかったんです。でもそのなかで彼女が質の高いプレーをしていた」
分かっているのに、やられてしまった――その悔しさとは即ち、自分も相手も、かつてない高いレベルで戦えているという、充実感と表裏でもあったのだろう。
ファイナルセットは、常に相手にブレークで先行される苦しい展開。だが、リードしたデフロートが勝利へのサービスゲームに向かっても、上地に大きな焦りや緊張はなかったという。
「それまでのリターンゲームで、やるべきこと、気をつけること、狙っていく展開は決まっていた」
その「やるべきこと」を徹底し、叩き込んだ連続リターンウイナー。土壇場で上地が追いつき、トロフィーの行方はタイブレークに委ねられることとなった。
タイブレークの結末は……
タイブレークは、7ポイント先取の短期決戦。そしてパワーと決定力に勝るデフロートは、ここに来て早期で勝負をかけていく。上地の打球がラインを超え7ポイント目を手にしたとき、ラケットを落とし、叫び声をあげて歓喜を爆発させるデフロート。勝負は決した……だれもがそう思ったはずだ。
ところがここで、一つのハプニングが起きる。
「まだ試合終了ではない、これは10ポイントタイブレークだ」
主審のその声に驚いたのは、勝ったと思ったデフロートのみならず、上地も同様だった。実は、最終セットのゲームカウントが6-6で並んだとき、どう決着をつけるかはグランドスラムによって異なる。全豪オープンでは最終セットのタイブレークのみ、10ポイント制が採用されていたのだ。
「全く知らなかった。きっとこの試合を見ていた人全員、7ポイントで試合は終わったって思ったでしょ?」
デフロートが後に困惑し、上地も「そういえばルールブックで読んだな~って後で思い出したんですが、すっかり忘れていました」と苦笑いをこぼす局面。
そして、途切れた集中力を結び直すのにより時間を要したのは、一度は敗戦を受け入れた上地の方だった。再開後はデフロートが3ポイント連取し、今度は安堵と涙の滲む表情で、長い激闘の勝利を噛みしめる。
「観客がいないのが、とても残念。みんなに見て欲しい試合だった」
表彰式でデフロートは、誇らしげに笑みをこぼした。
多くの人に見てほしかったというのは、上地も口にした言葉である。それは、「ミスでポイントが決まることのほとんどない、レベルの高い試合だった」という矜持からくるものだ。そのような試合が出来たのは、最高の好敵手にして共演者でもある、ディーデがいるから。同時に、戦前のシミュレート通りの試合をしつつも届かなかった現実を、「これが今の私と彼女との差」と受け止め、その差を埋めるための決意も新たにした。
「私には爆発的なパワーはないので、スライスだったり、車いすの動きを相手に意識させることだったり。いろんなことが重なって、相手にプレッシャーをかけられると思います」
この、上地の重層的なテニスへの志向は、今回の敗戦を次につなげるという思想にもつながっていく。
「競る展開に毎回持っていくことで、次の試合、次の試合という風に……一つだけでないですね。一つの試合だけで勝つということは、私はあまりイメージしていないので」
試合という点を線につなぐことで、次の試合をより高次へと押し上げる。高質にして濃密なライバル物語は、これからも紡がれていく。
text by Akatsuki Uchida
photo by Getty Images Sport