パラスポーツを支える「つくりびと」、視覚障がいスイマーの眼となるタッパーの第一人者・寺西真人

パラスポーツを支える「つくりびと」、視覚障がいスイマーの眼となるタッパーの第一人者・寺西真人
2021.08.23.MON 公開

パラスポーツの“今”をお届けするスペシャルムック『パラリンピックジャンプ』のVOL.5発刊を記念して、過去に本誌で取り上げたパラスポーツを支える人たちのストーリーをパラサポWEB特別版(全3回)でお届けします。

第2回は、視覚障がいのスイマーをサポートする「タッパー」の第一人者・寺西真人。レース中に選手へ壁の位置を最高のタイミングで教えるスイマーの相棒的存在として、パラリンピックを目指すに至った物語に迫る。

※この記事は『パラリンピックジャンプ』VOL.3(2019年8月発行)に収録されたマンガ『職人つくりびと』〜パラスポーツを支える人やモノ〜、#3タッパー編の原作を元に制作しました。


プロローグ

水泳において、『タッピング』とはゴールやターンの際に視覚障がいの選手に壁が近づいていることをバーで叩いて教えることをいう。そして、叩いて教える人のことを『タッパー』と呼ぶ。

タッパーと選手。
叩く人と叩かれる人。
ツッコミとボケ。

ではないが、これは日本の障がい者スポーツ史に、燦然と輝く選手にまつわる物語である。

2人の出会い

「お、河合、魔人が来たみたいだぞ(ヒソヒソ)」

筑波大学付属盲学校(現・筑波大学付属視覚特別支援学校)の高等部に入学したばかりの河合純一は、先輩から耳打ちをされた。
事前に同部屋の先輩からウワサで聞いていた『怒ったら怖い体育教師』、寺西真人。
“真人”を文字って“魔人”と生徒たちから裏で呼ばれていた。
悪さをする輩をこらしめる大魔神を連想するが、まさにそんな存在。
そして、水泳部の顧問でもある。

後のパラリンピアン・河合純一

高校入学を機に上京した河合。1975年に静岡県に生まれ、5歳から水泳を始めたが、小さいころから弱視で15歳で失明してしまう。視力を失った河合は将来を見据え、教師になるという夢をかなえるため、親元を離れて筑波大学付属盲学校に進学することを決めた。
視力を失った当時の河合はまだ点字を読むことができず、白状を使って街を歩くスキルがまだ身についていなかった。さらに初めて両親と離れて暮らす日々。勉強に加えて、視覚障がい者として覚えることも多かった。それでも盲学校でも当然のように水泳部に入部して競技を続けていた。

後の名タッパー・寺西真人

1959年に東京都に生まれた寺西は、体育大学を卒業後、母校で非常勤講師を勤めていた。中高と水泳部に所属し、大学ではアウトドア系に傾倒しながらも、スイミングクラブでアルバイトをしたこともあった。そのため、自身も運動の経験が豊富で、教える自信もあった。しかし、非常勤講師をしていた母校は進学校で、生徒たちの運動に対する熱量は決して高くなかった。

中学生A「先生、なんで走らないといけないんですか? 自転車じゃダメなんですか?」

そんな発言を聞いて腹が立つ反面、至極まっとうなことをいう生徒に寺西は何も言い返せなかった。

生徒にとってはたかが一授業。受験には体育の課目はなかった。当然、体育では運動をこなすだけになる。手ごたえのない日々。しかしそれが現実。

そんな寺西にたまたま声がかかった。非常勤講師を勤める母校の、道路を挟んだ位置にある盲学校から人員補充のため非常勤で来てくれないかと誘いがあった。

寺西「え? 盲学校ですかぁ!?」

もちろん視覚障がい者にかかわった経験がない寺西は率直に感想を言ってしまった。

(現在の寺西「この発言は生涯のワースト3に入る……。当時の自分をぶんなぐってやりたい……」)

が、寺西はこのオファーを受けることにする。
なぜなら母校と盲学校から交通費を二重でもらうことができたからだ(笑)

(寺西「非常勤講師の給料安いからありがたい……」)

不純な理由だったかもしれない。それでも盲学校で体育の授業で受け持った寺西。その授業の中で寺西は衝撃を受けた。生徒たちが一生懸命体育に取り組むのだ。
そもそも視覚障がい者にとって、運動には危険がつきまとう。視力がない中では、ただ安全に走り回って遊ぶことすら難しい。生徒にとって精一杯身体を動かせるのは体育の授業なのだ。もちろん生徒たちにはできないことも多い。それでも一生懸命取り組む。寺西も手取り足取り教える。

生徒A「やったー! 先生できたよ!」
寺西「おー!! すげーじゃん!!!」

このとき寺西は思った。

寺西「(これだよこれ!! オレが求めていたのは!!)」

要は生徒に教えるやりがいに飢えていたのだ。
その一年は午前中に母校の授業、午後に盲学校とはしごする日々を過ごした。盲学校での授業が毎日楽しみで仕方なかった。自分がもっと生徒の障がいを理解して教えられるよう、家の中で目隠しをして生活をしてみたりもした。そうすると食事一つすることすら難しい。箸が鼻に入るし、何を食べているかもわからない。生徒のためにとにかく必死になった自分がいた。その年度が終盤に差し掛かった際、盲学校で一人正職員に空きがあることがわかった。そして、寺西はそれに飛びついた。

晴れて盲学校の教師となった寺西。2年目に部活を作ろうと画策する。スクールウォーズに憧れていた。そして自分が教えらえる競技。水泳部を作ることを職員会議で提案し、反対を受ける中でも強硬に主張し、ついに盲学校に水泳部が誕生した。そして、その翌年、河合が学校に入学してきたのである。

盲学校のプールにて

河合「え? ここで泳ぐんですか……!?」

入学した盲学校のプールで練習することになったものの、そのプールは深さ1m、長さは12mしかなかった。地元の浜松市では50mプールが当たり前だった河合。幸いにも、文京区のプールや東京都の障がい者スポーツセンターのプールでも練習することができたが、使用できる頻度も限られていた。

とはいえ、中学時代は県大会に出場した実力の河合がこの小さなプールで充実した練習をするためには、何かしらの工夫が必要だ。

寺西「(このままじゃ河合にとってまともな練習にならない……。どうしたものか……)」

寺西は考えた。思いついたのは、着衣で泳ぐことだ。そうすれば抵抗が増す。また軍手を着けて泳ぐことで、抵抗が増すだけでなく水を吸って重くなるため、いいトレーニングになった。さらに、100円ショップでカゴを買ってきて、それをひもで選手の体に結んで泳いだりもした。そうすることで、小さなプールでも充実した練習をすることができるようになってきた。

また、選手に壁の位置を知らせるタッピング棒も、手作りしていた。最初は壊れて捨てられていたモップをゴミ捨て場から拾ってきて、その柄に子供用のヘルパー(浮き具)を刺したものが第1号だ。

工夫をしながら練習し、学校生活を送る河合だったが、入学後約2か月で、早速、大会に出場する機会が訪れた。

寺西とタッピング棒(写真は北京2008パラリンピック)

パラリンピックへのきっかけ

審判「位置について……、よーい……」ピッ!!

勢いよくスタートする河合、タッピングする寺西。ゴールして順位を確認すると、河合はあっさり当時の国内トップ選手に勝ってしまった。衝撃的なデビューを飾った河合は当然、障がい者水泳関係者の注目を集めることになる。

関係者「来年、パラリンピックがバルセロナであるんだよ。それだけ速く泳げるなら出れるかもなぁ!!」
寺西・河合「パラリンピック????」

寺西も河合もパラリンピックなんて頭の中になかった。話を聞いてみると、パラリンピックの代表選考会に出るためには、標準記録を突破しないといけないということだった。2人は標準記録突破のために、日本身体障害者水泳連盟(現・一般社団法人日本パラ水泳連盟)の公式大会に出場することにした。


大会の会場は福岡。寺西は河合と先輩部員2名を連れて福岡まで行くことに。飛行機で行くことが学校から許可が下りず、4名は新幹線で東京-福岡間を移動した。
もちろん車内ではヒマ。話すことなんてすぐ尽きる。

寺西「ヒマだな~。いつになったら福岡着くんだよ。ヒマだな~」
生徒A「先生、ヒマだからこれですごろくゲームでもやりませんか?」

生徒がおもむろに取り出したのは携帯型ゲーム機。

寺西「なんでそんなもん持ってんだよ。まあいいや、ヒマだしやるか」

しかし、4名のうち晴眼者は寺西だけ。

寺西「お! 6が出たぞ! 1、2、3、4、5、6。でも一回休みだって。残念(笑)。次、お前な」

そういって、携帯型ゲーム機を次の人に渡す。そしてボタンを押してさいころを振る。

寺西「4が出た。1、2、3、4。もう一回サイコロ振っていいって! ラッキーだな」

1人が振るごとに寺西が状況を全員に説明していく。おかげで楽しい車内での時間を過ごせたことは言うまでもない?

高みを目指して

福岡の大会で、河合は好記録を残して代表選考会への出場権を手にし、代表選考会でも記録を残してバルセロナ出場を自力で手繰り寄せた。

翌年、河合はバルセロナパラリンピックに出場。17歳ながら銀メダル2個と銅メダル3個を獲得した。その間、寺西はというと、学校で授業をしていた。

パラリンピックのレベルの高さや華やかな開会式を体験し、河合は4年後のアトランタパラリンピックで金メダルの獲得を目指すことに。そして、練習に一層力を入れるとともに、充実した学生生活を送っていく。

夏休みの練習後に寺西や他の部員と一緒に甘味処によってかき氷を食べて帰ったり、合宿と称して寺西家に泊まりに行き、みんなで夕飯を作ったり。ちなみに、寺西家ではやかんでゆで卵を作ろうとして中で卵が爆発し、やかんが使い物にならなくなった。その後帰宅した寺西の妻にこっぴどく怒られたのは寺西だった(笑)

さらに、寺西が盲学校の宿直で泊まったときには生徒たちが夜食と称して寺西からお金を預かり、夜食とともにお菓子を大量に買い込んで夜な夜な宿直室に集まって語り合うこともあった。

話す内容はさまざまだった。水泳のこと、将来のこと、そして……

生徒A「それでさ、好き子は誰なの?」
生徒B「え……? 言わなきゃダメ? えっと……、Cさんだよ」
生徒D「そうなの!? じゃあみんなでラブレターを下書きしようぜ! できたらCさんの下駄箱に入れてこよう!」
生徒B「いや~!!! やめてください!!!!」
みんな「わははははは!!!!」

高校3年の時、河合は夢だった教師になるために、早稲田大学の教育学部への進学を決める。

高校を卒業し、河合は寺西のもとを巣立っていった。
……のだが、大学生になっても、障がい者スポーツセンターのプールで定期的に一緒に練習したり、大学卒業後、河合が夢をかなえ教師になって地元・浜松に戻った後も、寺西が水泳部員を数名引き連れて浜松に行き、合同練習を敢行したりもした。

寺西「もしもし、河合、来週末部員を連れてそっちに行くからプールを押さえておいてくれよ! あと宿もよろしく! 4名で行くからな~」
河合「わかりました。気を付けて来てくださいよ」

50mプールで充実した練習を行ったが、寺西にとっては帰りが何よりつらかったという。なぜなら部員は疲れて寝てしまい、長い静岡県の端から東京まで寺西が一人で車を走らせて運転しないといけないからだ。そんなこんなで寺西と河合はずっと練習し、試合では寺西が河合のタッピングを担当し続けた。

レースでタッピングする寺西(写真は北京パラリンピック)

アトランタ大会で芽生えた感情

アトランタパラリンピックでは、河合は初の金メダルを獲得。金メダル2つを含む合計4個のメダルを獲得した。寺西は客席で金メダル獲得の瞬間を見届けた。レース後、河合が金メダルを携えて客席の寺西のもとへ。

河合「やりました! 金メダルです!!」
寺西「やったな!!! 河合!!!! 本当におめでとう!!」

河合に抱きつき、涙を流す寺西。そんな寺西にある思いが強くなる。

寺西「(オレもタッパーとして河合と一緒にパラリンピックで戦いたいなぁ)」

練習のときから正確なタッピングでスムーズなターンやベストなタイミングでのゴールタッチを突き詰めてきた二人。

例えば、60秒で100mを泳ぐ場合、0.6秒で1mを泳ぐ。そして、0.06秒で10cm、100分の1秒である0.01秒は約1.6cmだ。水泳では100分の1秒で決まってしまうレースもあり、その差はほんのわずか1.6cm程度しか差がないということになる。
もちろん選手自身の泳力がレースではものを言うが、本当に拮抗したレースの場合、わずかなタッピングの差が結果に影響を及ぼすことも十分にあり得るのだ。逆に、タッピングの失敗が選手の順位を落としてしまう可能性もある。さらに、パラリンピックの競技レベルは回を増すごとに上がっていて、わずかな差でのメダル争いは熾烈を極める状況だった。

寺西「(オレが育てた選手はオレの手でタッピングしたい。できることなら一番いい色のメダルを獲らせてあげたい)」

高まる寺西の思いとは裏腹に、当時は金銭的事情もあり、多くのスタッフをパラリンピックに送り込むことが難しかった。寺西が初めてパラリンピックにスタッフとして参加できたのが2004年のアテネパラリンピック。ついにパラリンピックを2人で戦うことが実現したのである。

アテネ大会の選手村での決意

現地に入り、大会直前で準備をしている寺西に日本から緊急の電話がかかってきた。

寺西「え!! お義母さんが心筋梗塞で亡くなったって!?!?」

妻から連絡を受けて衝撃を受ける寺西。

寺西「(とにかく日本に帰るしかないか……。でもやっとたどり着いたパラリンピックだし、オレが帰ったら選手にもチームにも迷惑をかけてしまう……)」

悩む寺西に妻が言った。

寺西妻「河合君に金メダルを獲らせるんでしょ? ちゃんとやり切ってから帰ってくればいいから」
寺西「……ありがとう。頑張って終わったらすぐ帰るから」

寺西の迷いは晴れた。そしてこのことはチームに伝えなかった。河合を除いて。河合は寺西のお義母さんの持っているアパートに住んだことがあり、親交があったのだ。2人は大会に向けて決意を新たにするのだった。

2人で目指した金メダル

大会が始まり、河合は銀メダル、銅メダルは獲得するものの、金メダルには届かなかった。

寺西「まだ次の種目が残っている。次をがんばるぞ!」
河合「このまま金メダルが獲れなかったらエーゲ海に沈むしかないですかね(笑)」
寺西「縁起でもないこと言うな!!(笑)」

金メダルが出ないまま河合の最終種目である50m自由形(S11)を迎えた。
予選レースを1位で突破し、自信を持ってレースに臨む。

アテネ2004パラリンピックにコーチとして初参加した寺西

寺西はゴール位置で待ち構えていた。レースがスタートするとリードを奪う河合。50m自由形は最も速いレースだ。タッパーの叩くタイミングを間違えば、ゴールタッチでリードを帳消しにしてしまうかもしれない。そんな恐怖心を感じないほど寺西は集中していた。
ゴールの位置から河合しか見ていなかった。すごいスピードで近づいてくる河合、無心で河合をタッピングする寺西。順位を確認すると河合が1位だった。

初めて2人で獲った金メダルだ。河合がゴールした直後、1位だとわかっても寺西は声を出せなかった。実はタッパーにはルールがあり、危険な状況など以外、タッパーは声を出してはいけないのだ。無言でガッツポーズした寺西は、プールから上がってきた河合と抱き合って泣いた。周りをはばからず2人で泣いた。寺西の夢がかなった瞬間だった。

河合は言う。

河合「視覚障がい者にとって表彰式ってあんまり実感ないんですよ。メダルをかけてもらうとかはあるけど、国旗も見えないし実感がわきにくいんです。でも金メダルは別物。君が代が流れた瞬間は自分が世界一になったんだと実感できるんですよ」

河合と寺西(写真は北京パラリンピック)

東京パラリンピックを目指して

河合はその後も現役を続け、2012年ロンドンパラリンピックまで出場した。その間に獲得したメダルは金5個を含む合計21個。歴代日本人最多だ。その功績が認められ、河合は2016年に日本人唯一のパラリンピック殿堂入りを果たした。そして、現在は一般社団法人日本パラ水泳連盟の会長を務めるなどさまざまな要職に就き、日本の障がい者スポーツのために尽力している。

寺西は河合に続くブラインドスイマーの育成に力を注ぎ、秋山里奈と木村敬一がパラリンピックのメダリストになった。もちろん、寺西もパラリンピックに帯同して彼らのタッピングを担当し、メダル獲得の一助を担った。

そして2018年、58歳の寺西は大きな決断をする。視覚特別支援学校を早期退職したのだ。

寺西「選手が人生をかけて2020年に真剣勝負している脇で自分も覚悟を決めてサポートしたいという気持ちからのことです。選手に金メダルを獲らせたい。それがオレの夢です」

アテネパラリンピックの水泳チーム

それぞれの道

このように2人はそれぞれの道を歩んでいる。
しかし、2人の話はこれで終わりではない。

寺西「河合ちゃん、今度、リレー出るからさ、河合ちゃんも泳げよ!」
河合「まあいいですけど。競技は引退しましたけど水泳は好きですから」

河合は生涯スポーツとして多忙の合間を縫って泳いでいる。そしてリレーに出場すれば寺西がタッピングしている。

親子ではない。兄弟のような間柄の2人。偶然の出会いから始まり、パラリンピックにつながり、日本を代表する選手にまでなった河合。それを支え続けた寺西。2人の金メダルを目指した戦いは終わったが、人生の旅路はこれからも続いていく。


本記事のもととなったマンガ『職人つくりびと』〜パラスポーツを支える人やモノ〜、#3タッパー編は、『パラリンピックジャンプ』VOL.3(2019年8月発行)に収録されている

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https://youngjump.jp/pj/

text by Asahara Mitsuaki/X-1
photo by X-1

※本記事は『パラリンピックジャンプ』編集部協力のもと掲載しています。

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