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貫き通したマイペース。マラソン・堀越信司は「最後までしっかり」粘って逆転銅メダル
東京2020パラリンピック、大会最終日の9月5日。オリンピックスタジアム(国立競技場)を発着点にした男女マラソン競技が行われ、T12クラス(視覚障がい)で堀越信司が銅メダルに輝いた。初めてのパラリンピック出場から13年。自分の走りを貫いてつかんだメダルだった。
猛暑予想外れ、涼しい中でのレースに
「5月、6月は長野県の菅平、7月、8月は北海道の北見で合宿をしてきました。特に、7月は38度近い炎天下での40km走もこなしてきたので、暑くなっても涼しくなっても自信はあったんですが、まさかここまで涼しくなるとは予想していなくて」(堀越、以下「」内同)
堀越が言うように、この日のスタート時の気温は19度。小雨の降る中でのレースとなった。暑さという不安要素は消えたものの、都心の名所をめぐる42.195kmのコースは、意外にもアップダウンが多い。特に、終盤に待ち受ける上り坂は勝負を分けるポイントの一つと見られていた。「今回のコースは、2019年のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)で使われたコースとほぼ同じ。多少、試走もしていましたが、序盤の下り坂を最後に上らないといけない。突っ込んでいったら、間違いなく後半にしっぺ返しが来ることは分かっていました」
リオ大会4位の悔しさを胸に
33歳の堀越にとって、パラリンピックは今回で4回目となる。初出場となった北京大会(2008年)では、トラック競技の1500m、5000mに出場するも予選敗退。続く、ロンドン大会(2012年)では、5000mで5位入賞を果たした。その後はマラソンへと軸足を移し、臨んだリオ大会(2016年)では4位とメダルまであと一歩という結果に終わった。その悔しさをバネにここまでやってきた。
「リオではすごく悔しい思いもしました。2013年に東京2020パラリンピックの開催が決まってからは、8年間、苦しい思いもしてきたので、本当にあきらめずにここまで続けてきてよかったし、応援してくれたいろんな人に感謝の気持ちを伝えたい」
事前合宿でケガ、「走れないことがきつかった」
実は大会前の菅平合宿で、坂道での距離を踏む練習をしていた際、左足のふくらはぎと右足のハムストリングを痛めて、思うようなトレーニングができなかったという堀越。全く走れない時期はそこまで長くはなかったものの、痛みを抱えながらのトレーニングは肉体的にも精神的にもきつかったという。
「基本的には、走るのが好きなほうなので。走れないことが、自分が思ったような走りができないというのがちょっときつかった……。でも、そこで投げ出すんじゃなくて、本番に向けて今何ができるのかをしっかり考えながら、いろんな人に支えてもらいながら、ぶれずに取り組んだからこそ、今日のスタートラインに立てたのかなと思う」
痛みと恐怖心に打ち勝ち、迎えた本番。5km地点をトップと1秒差の5位で通過すると、10km地点ではトップと21秒差の8位に順位を下げた。「ついていきたい気持ちはあったけど、ぐっとこらえて自分のペースを守った」。その冷静な判断が後半の走りにつながった。
逆転後も油断せず。粘りの走りでつかんだメダル
残り10kmを切った35km地点を6位で通過した堀越。その時点で、メダル圏内の3位の選手との差は40秒。ただ、5位の選手とは2秒差、4位の選手とも19秒差と、目の前に目標があったのもよかったのかもしれない。
「(他のクラスの選手も一緒に走っていたので)一体、今何位を走っているんだろうと思いながら走っていたら、35km過ぎくらいから『3番だ、3番だ』という声が聞こえて。でも、油断したら絶対まくられるという恐怖があったので、最後までしっかり粘ろうと思った」
序盤に突っ込み過ぎたら、後半にしっぺ返しが来る——。堀越の予想した通り、終盤になり疲れ始めた海外勢を尻目に、マイペースの走りを刻んだ。そして、ついに3位で通過した40km地点では、後続との差を1分以上に広げ、メダルを大きく引き寄せた。
冷静な判断力とリオ大会での悔しい経験、そして最後まであきらめない粘りの走りが生んだ銅メダルだった。
「1位、2位とはだいぶ差をつけられてしまったので、次はもう少しまともな勝負ができるように。今回一緒に走った友人でありライバルたちと、楽しくパリの街中を走り抜けられたら」
次回大会に向けてそう話す堀越。写真が趣味という「弱視の写真家」のファインダー越しには、もうパリの景色が見えているのかもしれない。
edited by TEAM A
text by Kenichi Kume
photo by Jun Tsukida