障がいがあってもボランティアはできる!東京オリパラ「誰もが参加できた大会ボランティア」秘話
コロナ禍の中で開催された東京2020大会は、さまざまな人々によって支えられた。中でも一般市民が参加したボランティアの活躍は特筆すべき大きな力だったと言える。そんなボランティアの中に、実は障がいのある参加者がいたのをご存知だろうか? 今回は、視覚障がいの当事者で、東京2020大会のボランティアに参加した工藤滋さんと村松芳容さんのお二人に、活動への思いや不安、そしてそれはどんな体験になったのかをお話しいただいた。
※本記事は、日本財団ボランティアサポ―トセンターとのコラボレーション企画となります。
ボランティアのユニフォームが目印に!見ず知らずの人からかけられた温かい言葉
そもそもボランティアの定義とは何なのだろうか。元々は「voluntas=意志」というラテン語から来る言葉だそうだ。つまり、そうしたいという「意志」を持って自ら無償で行う活動。無償だからといって、ほどほどにやっておけばいいというものではない。きちんと目的のためにひとりひとりが責任を持って活動することが要求される場だろう。そんな活動に障がいのある人が果たして参加できるのか? と考える人がいるかもしれない。
しかし、「多様性」が大きなテーマの一つであった東京2020大会では、ボランティアにおいても、「誰もが参加できる」が実現したのだ。
そんな中、「東京2020では、障がいのある人々がボランティア活動に参加しているということを、世界の人達に見てもらいたい」という動機で参加したと語るのが、筑波大学附属視覚特別支援学校 鍼灸手技療法科 教諭の工藤滋さんだ。
「ボランティアは、職業的に自立をしていて、生活や時間に余裕がないとなかなかできないと思うんです。すると、障がいがあってはできないものと思われがちですが、日本では視覚に障がいがあっても鍼やマッサージといった仕事があるので自立できる、ボランティア活動ができるんだと。僕が今回東京2020大会のボランティアを志望したのは、それを世界に発信したいというのが大きな理由のひとつでした」(工藤さん)
とはいえ、いざ参加するとなると、見知らぬ場所に行って、思うような活動ができるかどうか、多かれ少なかれ不安が伴うのは当然だ。しかしそんな不安を払拭するような、心温まる出来事があったという工藤さん。 「会場には着替える場所がない可能性もありますし、荷物を少なくするため家からユニフォームを着て出かけるように言われました。東京2020大会の開催には反対意見も多かったので、ユニフォームを着ていたらボランティアだと周囲の人に知られて、何か嫌な思いをするんじゃないだろうかという不安は正直ありました。でも、最寄り駅に着いたらまず駅員に『ボランティアですか?』と声をかけられ、同じ地下鉄に乗っている人からは『僕はオリンピックでフィールドキャストをやってたんです。ボランティアはすごく楽しいし、感動しますから頑張ってください!』と励まされて、すごく嬉しかったですね。それからは安心してユニフォームを着て家を出ることができるようになりました(笑)」
実際に国民一人ひとりが、東京2020大会をどのように考えていたかは知るよしもないが、否定的な意見が聞こえてくることも多く、工藤さんの不安はもっともだ。それだけに、応援の声がことさら温かく響いたのだろう。
見えない人には分からない「あれ、これ、それ」の説明
しかし、視覚に障がいがあると、たとえボランティアをしたいという「意志」があっても、自分ひとりではどうにもならないことがある。そのことにジレンマを感じたのが、静岡県の特別支援学校で教師をしている村松芳容さんだ。
「僕は2週間のボランティアのうち、前半は伊豆、後半は富士の自転車競技の表彰式で、ブーケ・ベアラー(運ぶ人のこと)、メダル・ベアラー、プレゼンターのエスコート、選手のエスコートの4つの役目を担う表彰式チームで活動を行いました」(村松さん)
この前半の1週間は、村松さんにとってはつらいものだったという。というのも、周囲には村松さんのような障がいのある人と接した経験があるボランティアがおらず、村松さんに何を任せて良いかわからない様子で、ボランティア同士のサポートが上手く機能しなかったようだ。本来は、健常者のボランティアが障がいのあるボランティアをサポートしながら、一緒に活動を行うことになっているが、障がいのある人のボランティア活動自体がこれまで少なかったため、こういったことが起きてしまったのだろう。結果的に村松さんは10ある仕事のうち1しか担うことができず、もしかしたら自分は人を助けるボランティアとしてきたのに、迷惑をかけているだけなんじゃないかと劣等感を覚えたのだという。
「一番困ったのは、指示語が多用されて、それが何を意味しているのかが分からなかったことです。ホワイトボードに表彰式の会場の見取り図が描いてあるらしいのですが、『ここからそこに行けばいい』、『あそこでこうしよう』などという会話が交わされ、【こそあど言葉】だらけで僕には全く理解できませんでした」
この村松さんの指摘にハッとさせられる人は多いのではないだろうか。見えていれば、ここ、あそこ、それ、あれと言うだけで話は通じる。しかし、見えていなければわからないのだ。このような視覚に障がいがある人が、必要な情報を得られるようにすることを「情報保障」という。もし、そのような“違い”に気づき、今自分たちがいる部屋には、何があって、誰がいて、窓からはどんな景色が見えていて……というようなことを説明し「情報保障」をする配慮があれば、視覚に障がいのある人との壁は、限りなく低くなるに違いない。
「もちろん、最初に自分には視覚障がいがあって……という自己紹介はしましたが、言葉で何ができて、何ができない、ということをもっと細かく説明するべきだったかもしれません。『立てますか?』とか、『歩けますか?』なんて質問されてしまって、ここまで一人で来たし、さっきまで立ってたのにな……と(笑)。完全に何もできない人だと思われてしまったみたいでした。とても悔しい気持ちでしたが、やはり自分としても、もっと伝え方を工夫すればよかったのかもしれないという反省点はあります。そういう意味で、伝えることの難しさを改めて、実感した最初の1週間でした」
「障がい」があたりまえの存在として感じられた海外選手の対応
最初の1週間はもやもやとしたジレンマを抱えていた村松さんだったが、後半は忘れられない嬉しい経験をすることになった。それは、メダルを取った選手をエスコートするシーンだった。
「杉浦佳子選手が金メダルを獲得した、9月3日のパラリンピック 自転車競技・女子個人ロードレース(C1-C3)の表彰式で、僕が選手たちのエスコートをすることになりました。最初に選手たちの前に立ったとき、『僕はアスリートエスコートで、これから一緒に表彰式に向かいますので、うしろに付いてきてください』と自己紹介します。そのあとに『僕は視覚に障がいがあるので、隣の女性がガイドパーソンとしてついています』と説明したんですが、その時にどの国の選手かはわからないんですが、『ああ、そうなんだ』とサラッと言ってくれた選手がいたんです」
前述の村松さんの経験のように、普段障がいがある人と接した経験のない人は、「障がいがある」と言われると一瞬気後れしてしまいがちだ。しかし、その選手のひと言は、ごくフラットに、何でもないことのように響いたから、村松さんにも印象的に聞こえたのだろう。それから、その選手は右半身に障がいがある杉浦選手を気遣って、ゆっくり歩くようにも提案してくれたのだという。
「僕はゆっくり歩きつつ、時に後ろの人がちゃんとついてきてくれているかどうか、時々振り返りながら歩いていたんです。すると、振り返るたびに“OK, we follow you.”とか“OK, perfect”などという言葉が返ってくる。さっきの選手だと思いますが、僕の拙い英語でもお互いの障がいを理解して、話しかけてくれているんだなということがよくわかりました。この出来事によって、僕は障がいのあるアスリートたちの大会であるパラリンピックに、僕自身障がいのある立場でボランティアとして参加することの意味、そして素晴らしさを感じ、とても有意義な大会だと思うことができました」(村松さん)
自ら声をかけていく、伝えていくことで、障がいがあっても世界は広がっていく
視覚特別支援学校(盲学校とも呼ばれる)で教師をしている工藤さんのボランティア参加には、「障がいのある人々がボランティア活動に参加しているということを、世界の人達に伝えたい」という動機のほかにもうひとつ理由があった。それは、「視覚障がいの度合いや年齢に関係なく、視覚特別支援学校に行けば職業訓練を受けることができる」ということを多くの人に知ってもらうことだった。
「僕はとにかくボランティアで会う人会う人に自ら積極的に話しかけ、『周囲に視覚障がいのある人で仕事を探している人がいたら、視覚特別支援学校に行けば職業教育を受けることができると、入学を勧めてあげて下さい』と伝えました。そんな草の根活動をひたすらしていたところ、最終日のトイレ休憩時に、僕の周囲に集まってきた人の中に初めて話す人がいたので、自己紹介をしようとしたら、『工藤さんのことを知らない人はもう誰もいませんよ』と笑われました(笑)」(工藤さん)
視覚障がいのある人と初めて出会った人のほとんどは、何を話したら良いか、どういう風に接したら良いかがわからない。しかし、工藤さんのように自ら近づいてくれて一緒にいて少しでも話すことができたら、ただ見えないだけで他は同じなんだということがわかり、両者の間にあった壁はいつの間にか取り払われてしまうはずだ。
「ボランティアの最後にみんなで記念撮影をしました。その写真をメールで送ってくれた方が『工藤さんと活動して普段ではなかなか体験できない、良い経験をさせてもらいました』とか『知らなかったことを教えていただいてとても勉強になりました』などと書いてくれたんです。僕の方がみんなからサポートしてもらう立場だと思っていましたが、知らない間に僕から何かを受け取ってくれていた人がいた。そのメールを読んだとき、こういうのが本当の共生社会なんじゃないかなと思いました。お互いに一緒に活動して良かったと思えること。これがボランティアに参加して一番良かったと思ったことですね」(工藤さん)
伝えることの重要性は、村松さんも同様に感じていた。ジレンマを感じる局面はあったものの、障がいがあってもボランティアはできるのだということを、職場である視覚特別支援学校で周囲の人や子どもたちに伝えていきたいと語る。
「東京2020大会のボランティアに参加して、何でもまずは挑戦してみることが大事なのだと思いました。いろいろなエピソードを自分の中に蓄えることによって、これからは自分にはこんなことができますと話せるようになる。反対にできないことがあったら、自分にはこういうことが足りないから、今度はこうしてみようとか、トライ&エラーを繰り返すことでもっともっと世界が広がっていきそうな気がしています」(村松さん)
村松さんは、背後から温かい応援の言葉をかけてくれた選手に、「あなたは自転車に興味があるのか」とも尋ねられたのだそうだ。ボランティア参加を通して、村松さんの中には自転車に対する興味が芽生えていたのだという。もしかしたら近い将来、ふたりはどこかで自転車に乗ったお互いの姿を見つけるかも知れない。「障がい」という言葉は、ともすれば障がいのない人間にはことさらに大きく立ちはだかるが、それはもしかすると自分で作った壁なのではないだろうか。たった一言でも口にすることで、たった一歩でも前に進んでみることで壁はあっと言う間に崩れる。お二人に話を伺って、そんな思いが強くなった。
取材協力:日本財団ボランティアサポートセンター
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Text by Reiko Sadaie(Parasapo Lab)
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