世界的に評価の高かった日本の大会ボランティア。一心同体となった海外選手との裏話
東京2020大会の開催は、さまざまな人々の力によって実現した。中でも一般市民が参加したボランティアは、無観客という状況下では選手団をそばで支えることのできる唯一の市民代表となるため、特に重要な活動だったと言える。一人ひとりがどんな思いを持って参加し、どんな経験ができたのか。縁の下の力持ちの視点で見た東京2020大会を、ボランティアとして参加した、藤堂栄子さんと湯浅朋子さんのお二人に語っていただいた。
※本記事は、日本財団ボランティアサポ―トセンターとのコラボレーション企画となります。
選手たちへのリスペクトの思いに突き動かされて
コロナ禍という史上初とも言える苦境の中で行われた東京2020大会。国内でも開催に関しては議論が分かれ、ボランティアでの参加を断念した人も少なからずいた。
「いろいろな意見が聞こえてきましたが、私には全く関係ありませんでした。それよりも、4年間頑張ってきたのに1年開催が延期になって出られなくなったり、亡くなったりして人生が変わってしまったアスリートがいる一方、水泳の池江璃花子選手のように病気を克服して出場できたアスリートもいます。反対する声があったとしても、そのために頑張ってきた人達に対するリスペクトの思いから、参加することに躊躇はありませんでした」
と語るのは、アンゴラ共和国を皮切りにスペイン、ロシア、そして最終的にフランスの女子ハンドボールチームのリエゾン(チームに帯同して通訳とともに日常の細かなことをサポートする)として活動した藤堂栄子さん。藤堂さんは、読み書きの能力に困難を抱える症状「ディスレクシア」の、正しい認識の普及と支援を目的とするNPO法人EDGEを主宰し、去年コロナで延期したイベントをやっと今年開催させた。それにより周囲から感謝された経験から「場を提供するのは大事なこと」だと実感していたのも、大会ボランティアへの参加へ背中を押したのだそうだ。
一方、以前カナダに留学した際のホームステイ先がユニバーシアード(国際大学スポーツ連盟が主催する総合競技大会)のコーチ宅だったことから、スポーツの素晴らしさ、アスリートの凄さを知った湯浅朋子さんは、長野パラリンピックなど数々のスポーツ大会のボランティアを勤める。そして、かねてカナダのスポーツチームと繋がりがあったため、東京2020大会の開催が決まった当初、カナダオリンピック組織委員会からボランティアに採用されていた。
「私は宮崎出身・在住なんですが、地元ではスポーツの国際大会が開催されることが多かったんです。子供の頃からボランティアとして参加する機会が多く、あるときカナダのチームと親しくなりました。それが縁でカナダに留学することになり大変お世話になったので、いつかカナダに恩返しするのが願いでした」(湯浅さん)
しかし、思いも寄らぬコロナ禍の影響で、カナダオリンピック組織委員会は昨年3月、日本に選手を送らないことを決定した。湯浅さんは呆然とする。
「それからも、カナダからは延期になった来年まで、あなたたちはカナダから選ばれたことを誇りに思って、とにかく安全にいてほしいと何度も連絡が来ました。選手たちも頑張って練習しているからと。でも、結局直前になってボランティアチームは解散することになってしまいました。残念でしたが、彼らも苦渋の決断だったと思うので諦めるしかなかったですね」(湯浅さん)
その後、湯浅さんの元にはカナダオリンピック組織委員会からチームのメンバーの一員であるとして認証書が送られてきた。結果的にカナダチームへの参加は叶わなかったが、カナダからの温かいメッセージ、そして困難に立ち向かうボランティア同士の固い絆が生まれたことにより、オリンピックへの思いはさらに強いものになったのだという。
選手がユニフォームを忘れた!? トラブルから生まれた勝利のジンクス
前回の1964年の東京オリンピックは、外交官をしていた父親の仕事の関係でイタリアに住んでいたため日本のチームの様子が分からず、もどかしい思いをしたという藤堂さん。ところが、2012年のロンドンオリンピックとパラリンピックの、ちょうど狭間の時期に偶然にもロンドンに滞在する機会があったのだそうだ。
「ボランティアの方たちが、とってもにこやかにWelcomeといった感じで外国人を迎えているのを目にしたんです。道を聞いてもとても親切にしてくれて。このロンドンでの体験と、子供の頃東京オリンピックを身近で見られなかったもどかしさがきっかけで、東京2020大会ではボランティアで参加しようと決めました」(藤堂さん)
猛暑の東京での開催なので、当初は室内での活動を希望し、選手経験のあるハンドボールの試合会場で選手たちにタオルや飲み物を用意する係になっていたそうだ。しかし、偶然、会場責任者が大学時代の友人で、ボランティアの割り振り担当者に「藤堂さんは外国語ができるのだからそれを生かさないともったいない」と言ってくれ、大会一週間前に急遽女子ハンドボールチームのリエゾンに役割が変更になった。
「最初は、マスコミで報道があったように、チームが移動に使うバスが遅れて、1時間などと時間が決められている練習時間に間に合わなくなる、というようなトラブル続きでした。トラブルが起きる度にリエゾンが調整しなければいけないケースも出てきて、そこまで私たちがする必要があるのかなとも思いました。でも、アウェイで戦う選手たちにとっては、私たちが少ない味方なのです。ここに味方がいるよと、そういう安心感を味わってもらうことが大事なのかなと考えるようになりました」(藤堂さん)
そんな藤堂さんをある事件が襲う。試合時間直前、控え室から出てきたアンゴラチームの選手が自分の着ているTシャツを引っ張りながら言ったのだ。「忘れちゃった、どうしよう…」。なんと彼女はユニフォームを選手村に忘れてきてしまったのだという。しかも、忘れた選手はもうひとりいたのだ。
「驚きました。でも、実は私も忘れ物は多いので、そういうときはどうしたら良いのかわかっていたんです。こんな私がリエゾンで良かったねと(笑)。まず、ユニフォームがない選手がいても試合は開始できることを確認。本来なら選手村にいる人に持ってきてもらえば良いのですが、ユニフォームは各選手の部屋にあるため鍵がないと入れません。そこで私とマネージャーが鍵を預かりタクシーを飛ばして取りに行くことになりました」
結果、藤堂さんの機転により、試合後半には二人は藤堂さんが汗だくになって取りに帰ったユニフォームを着て出場。トラブルにも負けず、試合で勝つことができた。
その後予選でトラブルはなかったがフランスチームに藤堂さんが付くと勝つことが重なり、いつの間にか藤堂さんがリエゾンで行く試合には必ずチームは勝つというジンクスができあがっていたのだという。行く予定のなかった準決勝、決勝にも帯同し、チームは見事優勝を勝ち取った。
「試合に勝つと、“あなたがいてくれたからだ”と選手たちから言われたのが何より嬉しかったです。自分が役に立っていることが実感できてボランティア冥利に尽きましたね。私がついたフランスに限らず、多くの国が日本人のボランティアを高く評価していました。それは、やはりコロナ禍で自分たちは日本代表であるという気持ちをみなさんが共有していたことが大きかったからではないでしょうか。観客が入っていたら、ここまで濃密な関係にはならなかったかも知れません」(藤堂さん)
「ボランティアもチームの一員だから」心を大きく動かされた絆づくり
藤堂さんは、選手たちに対する“リスペクト”の気持ちからボランティア参加を決めたと語ったが、一方選手たちやチームの間で何度も“リスペクト”という単語を聞いたというのが湯浅さんだ。
「私が担当したのは選手団のアシスタントで、付いたのはスイス選手団でした。選手村に常駐して、選手の気持ちを高めるために空間をデコレーションしたり、ベッドメイキングやスタッフ、選手たちのタクシー手配をしたり。スイス側にはボランティアの窓口を担当するメラニーさんという女性がいて、彼女からその日やることのリストを渡されるんですが、とにかく忙しかったですね」(湯浅さん)
メラニーさんが担当するのはボランティアの世話だけではない、選手にまつわる様々なことも瞬時に判断して対応していく。英会話学校でマネジメントの仕事をしている湯浅さんには、彼女の選手やボランティアに対するサポートを見て、学ぶところが多かったそうだ。その一つにこんなエピソードがある。 ご存じの通り、選手たちは自由に街に出ていくことができなかったため、買い出しは日本人ボランティアがその役目を担っていたのだが、メラニーさんから必要な物の買い出しを初めて頼まれたとき、湯浅さんはあるものを手渡されたという。
「スイスチームのロゴ入りのリュックをもらったんです。私も東京2020大会のボランティア用のものを持っていたんですが、“これを使ってほしい。あなたもスイスチームの一員なのだから”と言われました。とても嬉しかったですね。それでますますボランティアの責任の重さを実感し、とにかく与えられたことを短時間で効率よく、しかもなるべく他者との接触を避けるということを念頭に置いて仕事を全うしようという自覚が高まりました」(湯浅さん)
そんな忙しい日々の中、チームのみんながたびたび“リスペクト”という言葉を口にしていたことが印象的だったのだそうだ。
「ことあるごとに、選手たちをリスペクトしよう、国籍が違う人をリスペクトしよう、障がいがある人をリスペクトしよう、さらに私たちボランティアをリスペクトしようと、そういう言葉が自然に聞こえてくるんです。すると自分ももっと頑張ろうという気持ちになったし、相手を尊敬する気持ちを改めて持つことの重要さを、そこで学ぶことができました」(湯浅さん)
ボランティア活動を通して学んだこと
コロナ禍の中でのボランティア活動は、私たちの想像を絶する大変さがあったはずだ。絶対にウイルスを持ち込んで選手たちに感染させてはならない、自分たちのせいで何かが滞ることがあってはならないと、ただならぬ緊張感に包まれた日々であったことは想像に難くない。そんな中で藤堂さん、湯浅さんが学んだことは何だったのだろうか。
「コロナ禍の中での開催だったので、辞退するボランティアの方も少なからずいらっしゃいましたし、状況がどんどん変わるのでその度に仕事に変更があったりと大変ではあったんですが、ボランティアの方々は、みんなそれぞれの場所で自分の存在意義を感じつつ、楽しみを見つけて一生懸命やっていたと思います。年齢層も若い方から私よりちょっと上の方もいて幅広く、興味深い体験をしてきた方もいて、ともに活動することによって、こういう人たちがいる日本は捨てたもんじゃないなと思えたことが嬉しかったですね」(藤堂さん)
何ごともやらないで後悔することほど馬鹿なことはないと思っている藤堂さんは、やらなければゼロ、応募したところでプラス1と考えていた。そして選手に最も近いところでその姿を見たことにより、得たものはさらに何倍にもなったのだろう。同じく選手村で、選手たちの細かいお世話を担当した湯浅さんの得たものは、自分自身の背中を押すことになった。
「数々のスポーツ大会のボランティアをやってきて思うのは、選手たちの並ならぬ努力のすごさですね。特にオリンピックは4年、今回は5年でしたが、長い期間にわたって鍛錬し、努力を重ねるわけです。それを目の当たりにすると、自分なんかまだまだだなと思います。コロナ禍の中での開催ということもあって、選手のみならずボランティア同士でも団結力が高まって、私自身すごく鍛えられたと思います。何か悩みがあっても、『そんなこと小さい小さい』と吹き飛ばすことができるようになりましたから」(湯浅さん)
そんな湯浅さんに、今、ひとつの目標ができたのだそうだ。それはドイツ語の上達。スイスで通用する言語には、フランス語・ドイツ語・英語など複数あって、メラニーさんはボランティアとは英語でコミュニケーションを取っていたのだそうだ。しかし、選手たちには時々ドイツ語で話していたので、“今度会うときはドイツ語で話しかけて驚かせたい!”と決意したのだという。
藤堂さんは自身の主宰するNPOの活動において、湯浅さんは仕事の英会話学校のマネジメントにおいて、それぞれこのオリンピックでの経験が大きく役立つに違いない。お話をうかがったのは、東京2020大会が閉幕した直後だったが、疲れの中にも二人には大きな充実感がみなぎっていた。
こちらから伺ったわけではないのだが、お二人とも共通して口にしたのが「日本は捨てたもんじゃない」ということ。それは、ボランティアの仕事を通じてでもあるが、会場に向かう途中などにも感じられたのだという。ユニフォームを着ているのでボランティアだとわかった街の人やタクシーの運転手などから「ご苦労さまです」とか「みんなのためにありがとうございます」などと声をかけられることが度々あったのだそうだ。涙が出るほど嬉しかったと言う言葉に嘘はない。並ならぬ緊張感の中のお二人には、特に大きく響いたはずだ。この二人の経験を共有し、私たちも東京2020大会のレガシーとして未来への糧にしていきたいと思う。
取材協力:日本財団ボランティアサポートセンター
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text by Reiko Sadaie(Parasapo Lab)
key visual by Nippon Foundation Volunteer Support Center