実は“古着屋+ヘルパー”だった私が障害者カヌー協会スタッフに転身した理由・上岡央子さん

実は“古着屋+ヘルパー”だった私が障害者カヌー協会スタッフに転身した理由・上岡央子さん
2018.10.22.MON 公開

競技団体で働く女性のライフストーリーにスポットを当てる連載の第3回は、日本障害者カヌー協会の上岡央子さんが登場。それまで大阪で古着屋のオーナーとして働いてきた上岡さんが、37歳で協会スタッフに転身した、気になる理由に迫りました。

<パラアスリートを支える女性たち Vol.03>
うえおか・ひさこ(39歳) 
一般社団法人日本障害者カヌー協会 事務局長


アメリカンなバイクを乗り回す古着屋のオーナー

上岡さんが人生最初に憧れた職業は、なんと喫茶店のマスター。いつか自分でお店をやりたいと、漠然と考えていたそうです。洋服好きということもあって短大の芸術学科に進学。絵画などの芸術作品を見てその良さを人に伝える評論を学び、いいものを見つけて人に伝えたい気持ちが固まります。古着屋でバイトをしながら資金を貯め、23歳でヴィンテージ専門店の「Relish」を独立開業。広さ8坪の貸し倉庫をリフォームし、1950〜60年代のカジュアルウエアや趣味で乗っていたアメリカンタイプのバイクを並べて、お客さんのための喫茶スペースも備えた、たまり場のような空間を創りあげました。

−−13 年も続けてきた大好きなお店を、36歳で閉店させたのはなぜですか。

決めたのは閉める1年前でしたね。もともと“12年越えたらひと回り”という気持ちがあったんですよ。ファッションは周期的なものが絶対あるものだし、50〜60年代のアメリカの古着の数自体も時代とともに減ってきていた。だからといって違うものを売る店にはなりたくなかったんです。来てくださるお客さまにも、自分自身も、みんなが納得できるような稀少価値のある品を探せなくなってきたことを、正直に伝えたんですね。もうずっと長く来てくれている常連さんばかりだったので。するとみなさん、「いつまで続けるんか、逆に心配してた」と、反対に私の将来を心配してくれました(笑)。でもこの先、違う経験で12年過ごしたほうが面白いかもしれないと、迷いはありませんでした。

「Relish」には刺激的な、趣のあるという動詞的な意味と薬味という意味があり、手持ちの服を飽きずに、また新しい魅力を与えられるスパイスにしてほしいという願いが。

もう1本の軸足、障がい者のガイドヘルパー

当時お店と並行して、障がい者のガイドヘルパーのバイトもしていたんです。そのきっかけは、母が結婚前に重度障がい児の保育士をしていたころにさかのぼります。私が母のお腹の中にいたときから、障がいをもつ知人たちが私が生まれてくるのを楽しみに待っていてくれて、ものごころついたときには普通に車いすユーザーの方の中に混ざって、彼らに遊んでもらうという幼少時代を送りました。

ひとつ、今でも忘れられない出来事があるんです。二十歳になって初めて、車いすの友人と飲みに行ったときのことです。雑居ビルの4階にあるお店の看板を見て「おしゃれで美味しそう。行こ、行こ!」と私が声をかけてエレベーターに乗ろうとしたら、車いすが入り口にガン!とぶつかったんです。幅が合わずに乗ることができなかったんですね。そのときの友人の悔しそうな表情が忘れられず…。「なんで車いすが入れないエレベーターつくんねん」と、私自身が初めて社会の壁を感じた瞬間でした。

30代になってからは、母から「人が足りないから手伝って!」と声をかけられ、週に1回、障がい者の移動支援のバイトを始めました。同世代の方が街に出るときのガイドヘルパーのような仕事です。そのうちに自立生活センターからも声がかかって、ひとり暮らしの重度障がい者の夜勤支援も行うように。お店の閉店作業をしたあとにご自宅に訪問して、入浴介助や就寝介助をして、夜中に2〜3回体位交換。起きたら、朝食づくりからその方が作業所へ行くまでサポートします。多いときで月に10回くらい夜勤介助をしていました。

車いすユーザーの友人たちと障害者差別解消法施行のお祝いパレードに参加したことも。

だれもいないなら、私が事務局をやる!

−−ひとりでお店をまわしながら、ガイドヘルパーや夜勤の介助も並行されていたなんてすごいですね。閉店したとき、今後のビジョンはあったのですか?

私は旅行が好きなので、当時は“1年くらいふらっと知らない海外を旅でもしながら、ゆっくり先のことを考えよう”くらいに思ってたんです。なのですが、その頃すでに日本障害者カヌー協会のボランティアも始めていて、お店を辞めた時期と、協会の東京事務局が立ち上がる時期が重なったんですね。

もともと任意団体として活動していたので、会長の自宅を事務局にしていたんです。そこに日本財団パラリンピックサポートセンター(パラサポ)ができて、東京に事務局が置ける、支援もしてもらえるということで、会長の吉田さんから「だれか組織づくりを一緒に手伝ってくれる人、おれへんかな?」と相談を受けたんです。そのときは関わって1年足らずの、まだカヌーのことをよく知らない私が、東京に行くとは思っていなかったんですよ。

でも、何回も真剣に相談されるうちに「上岡さん、来る気ないか?」という雰囲気になったんです。みなさん、自分の仕事をもっているスタッフの方ばかりだったので、辞めて東京に行くのは難しいと。私はといえば、ガイドヘルパーをパート勤務でしていたので、引き継ぎさえできれば辞められないこともないと思い、37歳で新しい道に踏み出してみました。決めてから3か月で上京して、現在に至ります。

「上岡さんは、たとえるならちょこまか機敏に動き回るネズミさん(笑)。 その反面肝が据わっていて、選手たちのいいお母さんのようでもあります」(日本障害者カヌー協会 吉田会長)

2020年までに協会のビジネスモデルを構築したい

−−これまでずっと障がいのある方と関わり続けてきた上岡さんですが、障害者カヌー協会の事務局長になってから、何か意識は変わりましたか?

まず、選手の人たちとガチンコでぶつかり合うことで、“支えあっている”イメージができたことですね。みなさん、障がいを受容して乗り越えたうえでアスリートとして競技に取り組んでおられる方ばかりなので、モチベーションが高いんですよ。どういうふうにすれば自分の障がいを競技での速さにつなげられるのかなど、研究熱心で前向きです。熱量、高いです! 一緒にいるだけでこちらが引き上げてもらえるようなエネルギーを感じています。

東京事務局で働いてみて感じた課題は、“2020年までに、自分たちの協会をどんな形につくれるのか”、ということです。時限的な支援や助成金に全部頼りっきりのままでいたら、きっとオリパラ終了以降に組織の存続はないだろうと感じています。もちろん私自身の目的は2020年以降も関われるような協会を作ることなので、さしあたっては協会の会員数を5000人まで増やしたいです。5000人の方に私たちの活動を見て、知って、楽しんでもらって、「だれでもどこでもカヌーが当たり前に楽しめる社会」をつくれたら、なんて思っています。パラカヌーを通して、忙しい日本でちょっと置きざりになっているように感じる“他者への配慮”を体験してみる。そのことが、日本の“おもてなし”につながることなのではないかと思っています。

チームの中では、2020年が終わったときに叶えたいささやかな約束ごとができました。それは、カナダとアメリカを流れるユーコン川に行って、みんなでキャンプしながら川を下り、カヌーの上から星やオーロラを眺めることです。吉田会長はよく選手に「終わったら、ユーコンに行くぞ!」と言うんです。決められた競技場でカヌーを200m漕ぐだけじゃなしに、雄大な自然の川をカヌーで旅する楽しさをみんなに伝えたいから、と。選手も私も、実は2020年よりもユーコン川を楽しみにしていたりします(笑)。そのためにはみんなでメダルを獲得できるよう、日々頑張っていきたい。ぜひ、応援よろしくお願いします!

職場での上岡さん。現在、協会事務局を吉田会長と2人で運営。
少数精鋭で日々奮闘しています。

「パラカヌーのサポートをすることで、他者に対する想像力や配慮が培われます。学びが得られる体験会を企業の新人研修向けにアレンジするべく、ただ今構想中です!」と、意欲的な上岡さん。

後編に続く

text by Mayumi Tanihata
photo by Yuki Maita(NOSTY)

一般社団法人日本障害者カヌー協会
https://www.japan-paracha.org/
*カヌーに乗ることができる体験会は随時開催

障害者カヌーについて詳しくはこちら

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